HOME近代文化研究 > 北條秀司関係資料|劇作家北條秀司とは

北條秀司関係資料

劇作家北條秀司とは

北條秀司(ほうじょうひでじ)は、明治35(1902)年11月7日に大阪で生まれた。本名は、飯野秀二である。大阪市立甲種商業学校(現・天王寺商業高校)卒業後、日本電力株式会社大阪本社に入社すると、仕事の傍らで関西大学専門部文学科に籍を置いた。大正15(1926)年には、東京建設所に転任となり、小田原電気鉄道と日本電力が合併し、鉄道部門が箱根登山鉄道株式会社として分社化し、同社に出向した。事務課長として鉄道や旅館の発展に尽力するいっぽうで、劇作家として、昭和8(1933)年に岡本綺堂門下になると、昭和12年に「表彰式前後」でデビューする。北條秀司という筆名は、小田原の戦国大名北条氏にちなんで岡本からもらったものである。岡本が昭和14(1939)年に没すると、以後は長谷川伸を師として仰いだ。

それにしても驚くべきは、その旺盛な創作活動である。昭和12(1937)年のデビューから平成8(1996)年に93歳で永眠するまでの59年間に創作した戯曲の数は220 編を超えている。とくに昭和22(1947)年に新国劇で初演された「王将」は最大のヒット作となり、第2部・第3部を含め50回におよぼうかという再演を重ねている。その後も歌舞伎・新派・新国劇・東宝演劇・などの舞台に脚本を提供し続けた。上演は、再演を含め2009年度末までで800回を超えている。大劇場商業演劇の第一人者としての北條の作風は、庶民の哀感や社会とのかかわりを、その強靱かつ繊細な精神で叙情豊かに描き続けたと評価されている。

大劇場演劇(商業演劇)の第一人者として評価され、自ら書いた脚本は自ら演出するという自作自演の姿勢を貫き、その厳しい姿勢は「北條天皇」「強情秀司」とも呼ばれていた。北條は、日本演劇協会会長や国際演劇協会日本センター会長なども歴任し、昭和62(1987)年には文化功労者にも選ばれている。

北條の作品はジャンルの多彩さでも際だっていた。デビュー作の「表彰式前後」のような現代劇・社会劇から、源氏物語に題材をとった「浮舟」や「末摘花」などの古典もの、「千利休」や「北条政子」、「信濃の一茶」などの伝記・時代物、「丹那隧道」や「松川事件」のようなドキュメント・ルポ物、そして「仇ゆめ」のような動物を題材としたものといったように時代も題材も多岐にわたっている。とくに源氏物語を題材にした戯曲は北條源氏と称された。また、歌舞伎への作品提供は、舟橋聖一や三島由紀夫などとともに戦後の新作歌舞伎を代表する一人に数えられている。

北條秀司関係資料

資料の整理状況