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2007~2009年度プロジェクト
史料叢書「幕末風聞集」(史料集刊行)

解説

2.「幕末風聞集」の作成者について

それでは、この「幕末風聞集」の作成者は誰なのであろうか。また、その目的は何であったのだろうか。「幕末風聞集」自体には、直接、作成者であることを確認できる記載はなく、目的についての記述も一切ない。だが、史料をみていくと、作成者については、いくつか類推できるような記述がみられる。結論からいえば、「幕末風聞集」は、伊勢松坂(現三重県松阪市)か、あるいはその周辺の人物である可能性が高いと考えられる。各巻の中から、作成者につながるような情報について検討してみることにしよう。

図1.「豊川」印

図1.「豊川」印

まず「幕末風聞集 第一番」には、この人物がそもそもの作成者ではなかったかと思われる痕跡がみられる。裏表紙に「豊川」の文字があり(56頁)、裏表紙をめくると「南勢 魚町住 田中重益」とある(35頁)。さらに文末の後にもやはり「豊川写」という文字がみえる(35頁)。「南勢 魚町住」は、南伊勢地方は松坂の中の一町である魚町と考えて間違いないであろう。松坂薬屋山村壺仙著「宝暦はなし」によれば、魚町には田中姓が二軒あるというが、「重益」に該当するような人物は今のところ確認できない(『日本都市生活史料集成』四 城下町篇Ⅱ収録)。「豊川」は雅号であろうか。図1にみられるように、なかなか意匠的に凝った「豊川」の印も押されている。ただし、いずれも上から貼紙がしてあって、これらの文字や印は、すべて抹消しようとしたのではないかと考えられるのである。「幕末風聞集 第一番」がもともとは別のものであったかもしれないと考える理由の一つである。

内容的にもまた、いくつか注目される記述がある。その一つが、「幕末風聞集 第二番」の中で、天誅組の浪士たち100人あまりが、大和国吉野郡(現奈良県)から同郡谷村(現奈良県下市町)へと入り込み、鷲家口村(現奈良県東吉野村)へ兵粮米の支度を求めてきたこと、そのため鷲家口村から瀬戸村(現和歌山県西牟婁郡白浜町)を越えて伊勢の方まで押しかけてくるかもしれないということで、紀州街道の警備のために現在の三重県と奈良県との境にある高見峠まで、「鉄炮打之者」を召し連れて手配したという情報が、文久3年(1863)9月23日付で、「川俣大庄屋中」から「松坂大庄屋中」宛に出されていることである。しかもこの情報は、「田丸」へもそのまま伝えて欲しいとある(59頁)。ちなみに鷲家口村は、天誅組が壊滅した地として知られている。

伊勢国飯高郡松坂は、天正12年(1584)に蒲生氏郷が豊臣秀吉から12万石の城主として封じられると、同16年、良港があり街道沿いの要地であったこの地の西方丘陵、四五百森(よいほのもり)に築城して、地名を「松坂」と改めたという。以後、松坂城は、服部一忠、古田重勝と受け継がれていくが、重勝の弟重治が襲封した後、元和5年(1619)に重治は石見国浜田(島根県浜田市)に転封となった。同年、徳川家康の第10子徳川頼宣が紀州藩主となると、松坂の地は同藩領となり、松坂領六万石と呼ばれ、以後松坂城には紀州藩代官が置かれることとなった。また、伊勢国度会郡田丸(三重県度会郡玉城町)は、伊勢本街道と熊野街道の分岐点となる交通の要衝で、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの軍功によって、伊勢国岩手城主であった稲葉道通が2万石を加増されると、道通は田丸城に移って、この地を城下町とした。その後、元和3年(1617)には、稲葉氏の転封を受けて津藩領となり、続いて元和五年には、松坂と同様に紀州藩領となり、田丸領6万石と称するようになった。つまり、いずれも紀州藩の飛地領であり、それも和歌山に向かう街道の重要拠点だったのである。そのため、いずれにも大庄屋会所が設けられていた。ただし、川俣はこの場合、どこの地名をさすのか、鷲家口村などの天誅組に関して、槍組を川俣へ振り替えたとあるので、あるいは、吉野郡の川俣村(現奈良県五條市)かとも思われるが、具体的には不明である。また、これらの記事に引き続いて「幕末風聞集 第二番」には、天誅組一件に関して、大和に出張した津藩領魚見村(現三重県松坂市)の来状写も収録している(59頁)。これがわざわざ「津領魚見村」と書かれていることからみても、天誅組に対する一連の動きが紀州藩のものであったことは確かであろう。

ただし、「幕末風聞集」には、これら以外に明らかに松坂のことと確認できる記事はみられない。そこでもう一点、注目したいのが、大坂からの来状や聞書などが「幕末風聞集」には多数収録されていることである。大坂以外でも江戸や京、あるいは名古屋からの来状などもあるのだが、質・量ともに大坂からの情報がぬきんでている。「幕末風聞集」では、とりわけ第三番と第四番、中でも第四番に多い。文言としては、「大阪より八月十二日夕出書面写し左之通」「大坂より来状之写」「大坂状」「四月十九日大坂詰より申来写」といったものが散見される。この大坂の情報が「幕末風聞集」の史料的価値を左右するといっても過言ではないが、残念ながら、差出人も請取人も不明なものがほとんどである。こうした中で一件だけ、両者がはっきりしているものがある。第四番にある「大坂木綿問屋袴屋善三郎より六月廿日出ニ而長井嘉左衛門江申来ル書面之写」(160頁)という記述である。内容的には、第二次長州征伐における大坂の現況を知らせてきた書面である。

このうち請取人の長井嘉左衛門は、松坂湊町で木綿問屋と両替商を営む豪商である。伊勢大神宮の所在地である伊勢地方は、古来より海上・陸上交通の要衝として、商業の盛んな地域であった。関東にもすでに小田原北条氏の頃から進出していたといわれており、徳川家康が江戸に入国して以降は、他国に先駆けて伊勢の商人たちが江戸に進出し、大きな勢力を保っていたといわれている。松坂は、蒲生氏郷によって城下町が建設されて以来、良質の松坂木綿の生産とあいまって、伊豆蔵・長谷川・小津・中川・小野田などの諸家が江戸に進出していた。その代表格が、三井財閥の租となる三井八郎右衛門の越後屋である。長井家は、屋号を梅屋といい、江戸の出店を大和屋と称していた。特筆すべきは、長井嘉左衛門が長谷川治郎兵衛・小津清左衛門・殿村佐五平・坂田五郎兵衛とともに、紀州藩の金融に関する御用達として御為替組五家に名前を連ねているということである。長井家が御為替組に加入したのは、宝暦5年(1755)のことで、紀州藩から15人扶持を下賜されていた。時代は下るが、文化10年(1813)には25人扶持となり、天保3年(1832)に地士独礼格、文久4年(1864)には大御番格を拝命した家柄であった(『松坂市史』第十二巻 史料篇 近世(2)経済)。

いっぽうの袴屋善三郎については、詳細は不明であるものの、高麗橋町や道修町(現大阪府大阪市)に店を構える木綿買次問屋の袴屋の系列の一つであったと思われる。すでに正徳6年(1716)における長井家の木綿販売では、買次問屋として大坂の袴屋の名前をみることができる(北島正元編著『江戸商業と伊勢店』吉川弘文館)。いずれにしても、袴屋善三郎は、古くから長井家と取引きのある大坂の木綿買次問屋であることは間違いないところで、そうしたルートからの情報が書き上げられているのである。

このほかに名前が確認できるものとして、第四番に「大坂竹川彦太郎店より実録聞書写」とある(162頁)。この「実録聞書」とは、長州におけるいわゆる四境戦争の内、大島口(現山口県)での戦闘の状況を報告したものである。竹川彦三郎家は、摂津国川辺郡尼崎町(兵庫県尼崎市)の両替商で(「浮世の有様 巻之六」 矢野太郎編『国史叢書 浮世の有様 3』国史研究会)、三井八郎右衛門とともに大坂会所為替御用達を勤めた家である。幕末には箱館物産会所の御用達も勤めていた(『函館市史』通史編第2巻)。やはり、大坂の豪商の一人であったが、竹川の場合には、請取人の記載があるわけではない。

図2.「殿村図書」印

図2.「殿村図書」印

恐らくであるが、袴屋善三郎から長井嘉右衛門への来状は、そもそもこの二人が「幕末風聞集」の作成者にとって第三者であるからこそ、差出人・請取人の双方の名前が出てくるのであろう。これに対して、竹川からの「実録聞書」は、竹川から作成者に直接届いたものと考えられないだろうか。そうであれば、一般的な文言が「大坂・来状之写」「大坂状」などとあるのは、自分にとっては周知のことであるから、書く必要がなかったと考えられる。そしてその人物、つまり作成者は長井嘉右衛門とは、ごくごく近い人物であったといえよう。そうなると、やはり気になるのは、すべての巻に押されている「殿村図書」の蔵書印である(図2)。

殿村家もまた、松坂の豪商の一人であった。殿村佐五平が、長井嘉右衛門とともに紀州藩の御為替組五家のうちの一家であったことは先に述べたとおりである。殿村家は、松坂中町住で、江戸時代の中期頃から木綿問屋・両替商として活躍し、代々松坂の大年寄を勤めていたという(前掲『松坂市史』第12巻)。また、当家から出た佐五平安守は、松坂出身の国学者本居宣長の最晩年の弟子であるとともに、滝沢馬琴とも深い交友関係があって、文化人としても知られた存在であった(『松坂市史』第7巻 史料篇 文学)。宣長門下の鈴門としては、宣長亡き後も後継の春庭の後見人として本居家を支え、門人の中心として活躍した。御為替組となったのもこの安守の時代であった。

ただし、殿村家は松坂に四家あって、この本家佐五平家のほかに、別家の殿万(足立万兵衛家)、殿忠(殿村忠兵衛家)、殿八(橋本八右衛門家)があったという(前掲『松坂市史』第12巻)。いっぽう、大坂には内平野町二丁目(現大阪府大阪市)に殿村平右衛門家があり、米屋・両替商を営んでいた(『大坂内平野町殿村蔵書目録』)。それぞれの関係については、今一つ不明ではあるが、一般的に考えれば、大坂からの来状は、この大坂内平野町の殿村平右衛門家から、松坂の殿村家のいずれかに出されたものと考えても、あながち無理な解釈だとはいえないであろう。松坂四家の中ではやはり殿村本家の可能性が高いであろうか。ちなみに本居宣長記念館の吉田悦之館長にお伺いしたところでは、この蔵書印は初見であるとのことであった。

「幕末風聞集」の作成者については、現段階では伊勢松坂の商人ではないだろうかということで、ここまでの考察を進めてきた。もちろん、確定できたものでない以上、さらに内容を吟味して、ほかの可能性についても検討されなければならない。

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