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2007~2009年度プロジェクト
史料叢書「幕末風聞集」(史料集刊行)

解説

3.「幕末風聞集」の内容について(その1)

本来ならば、「風聞集」「風説留」などような、さまざまな情報が書き留められた史料については、類似の史料との比較はもちろんのこと、それぞれの記事や収録された書簡・文書・記録などがほかの史料集などに収録されていないか、あるいはそもそもの出典は何なのかといったことについて調査・検討されなければならないであろう。また、史料そのものについても、そこに登場する人物や書き留められた記事の内容等々詳細に検討していく必要がある。ただ、「翻刻にあたって」でも述べたように、今回は翻刻することが主で、そこまではいたっていない。さらにいえば、書かれた記事・内容がどれくらいの価値を持つものか、ほかではみられない新出のものなのか否か、その真偽も含めて、専門外の身からは判断がつかないのが現状である。したがって、ここでは各巻ごとの概要をごく簡単にまとめることと、とくに編者自身が注目する点について若干の意見を述べることで責を果たしたと考える。

第一番

第一番には①「和蘭陀国ヨリ告密書」(1頁)②「亜墨利幹国船浦賀湊来着聞書」(6頁)③「亜美理駕大合衆国書翰漢文和解」(28頁)の三件の内表紙があって、それごとに内容がわかれている。

①には、天保14年(1843)12月27日のオランダ国王ウィルレムⅡ世の日本への開国勧告と、これに対する弘化2年(1845)6月朔日付、阿部正弘ら幕府老中の回答書、そして嘉永5年(1852)の「阿蘭陀別段風説書」の抜粋の3点が収録されている。②はこの巻の中心となるもので、嘉永6年(1853)6月3日のペリーの浦賀来航以降の記事が並ぶ。③は、アメリカ合衆国大統領フィルモアの漢文和解と、ペリー書翰の漢文および蘭文和解が収録してあり、その後にまた、ペリー来航後の記事が続く。ペリー来航後の記事といっても、6月3日から7月6日までのひと月あまりの時期に限られている。とはいえ、②③に収録された記事では、浦賀奉行所や警衛の諸藩、江戸の町方、江戸城内など、それぞれの動向を示す史料がまんべんなく並んでいて、来航直後の全般的な対応状況を知ることができる。

とくに②で注目されるのは、浦賀奉行所与力からの聞書である(17頁)。この史料は、ペリー来航時の具体的な状況を浦賀奉行所の与力五人からの聞書という形でまとめたもので、幕府の機密文書としてあつかわれていたものである。だが、実際は、海防担当の諸藩をはじめとして、広く一般に流布しており、多くの写本が存在している。ただ、それがどのような経緯で写されたかという点については、ほとんどわからないのであるが、ここでははっきりと、千葉周助の門人ならびに磯又右衛門の内弟子が浦賀を訪ねて、原惣蔵なる人物から提供を受けたことがわかる。千葉周助は、千葉周作の誤記であろう。千葉周作が開いた剣術の一派北辰一刀流の道場玄武館と、磯又右衛門が開いた柔術の一派天神真楊流の道場とは、ともに江戸神田お玉が池の、それもはす向かいにあって、両道場の門弟の交流は盛んであったといわれている。その両道場の門弟たちが、連れ立って情報を求めて浦賀まで出向いたという点でも興味深い。なお、この「与力聞書」については、『新横須賀市史』資料編 近世Ⅰに№295(834頁)として全文が収録されている。

「幕末風聞集 第一番」の様式などが、第二番以降のものと異なること、場合によっては別人の手によるものであることは先の述べたとおりである。その正否はしばらくおくとして、幕末動乱のそもそもの起点がペリーの来航、すなわち「ウエスタンインパクト」にあったということが、「幕末風聞集」の作成者に強く認識されていたことは間違いないであろう。そして第一番では、その前提として、オランダ国王ウイルレムⅡ世による開国勧告から収録している点が注目される。ペリーの書翰では、今回の来航ついては、オランダを通じて事前に通達していたということがことさら強調されてもいるので、「風聞集」の作成者もとくにそうした点を注目したのかもしれない。また、ペリー書翰自体も漢文和解と蘭文和解がそれぞれ三種類確認できる。『幕末外国関係文書之一』では、漢文和解と蘭文和解が一セットになっているだけである。

第二番

第二番には内表紙のようなものはついていないが、史料につけられた表題で内容を分けることができるようなので、そのまま書き抜いてみる。
①乍恐以書取奉申上候 清寿事 長坂蒼峯(37頁)
②御宸筆写し(44頁)
③七月十三日出之書状(45頁)
④京都より文通指出(47頁)
⑤当時高名英雄録 一枚摺画図之写書(47頁)
⑥北亜米利加船渡来ニ附、神奈川表江御用船ニ而及出張、於横浜応接場ニ相撲興行一件其外共控(47頁)
⑦嘉永七寅年二月廿六日右御用相済、同廿七日江戸表江罷帰ル、即刻鏡岩より百足町小沢与右衛門殿江参写書(51頁)
⑧注進写(56頁)
⑨和州五条乱妨一件聞書(56頁)
⑩当時珍書(61頁)

①は江戸城表坊主長坂蒼峯から提出された文久元年(1861)11月付の「書取」である。蒼峯は、文政期(1818~1830)に老中格水野忠成(駿河国沼津藩主)と老中大久保忠真(相模国小田原藩主)の御部屋御用勤ならびに年寄方御手元書留兼帯を勤めていたが、とくに忠真には、父清寿の代から懇意にしており、蒼峯もまた、忠真によって取り立てられ、御奥向まで種々の御用向を勤めるようになったという。大久保忠真は、二宮尊徳の登用などで知られるように、小田原藩における化政~天保期の藩政改革全般を担った人物で、幕閣としては、文政元年(1818)に老中に列し、天保5年(1834)には勝手掛老中の一人に、また翌天保6年(1835)には老中首座に任じられている。徳川家斉の信任によって権力をふるったとされる水野忠成とは対立する関係にあり、それゆえに水戸藩主徳川斉昭と親交の深い人物であった(『小田原市史』通史編 近世)。忠真は、家斉の驕奢な振舞いと外夷が国家の危機を招く可能性があるということで、天保六年九月初旬に蒼峯を宅に召し寄せて、国々の内情を探るように命じたという。事実ならば、忠真が老中首座になった直後である。蒼峯は以後、四度にわたって諸国を内探して廻ったと述べている。内容について具体的にみていけば、いくらか時期的な齟齬などがあったりするので、必ずしも全面的に信頼できるわけではない。ただ、注目されるのは、この「書取」が文久元年に上申され、しかもこれまでの内探の結果として、将軍徳川家茂の上洛を強く勧めているということであろう。それを目的とした上申であったといった方がよいかもしれない。なお、瀧本誠一編『日本経済大典』第47巻には「長坂氏書上」が収録されている。また、①と②の史料は、横の長さが152.2㎜と短く、別帳になっている。これが最初の部分にそのまま綴じ込まれているのである。

さて、第二番の中でもっとも古い記事は、⑥嘉永7年(1854)にペリーが再来航した際に横浜の応接場において行なわれた相撲興行の記事であり、それから文久3年(1863)の天誅組の変にいたるまでのさまざまな情報が書き留められている。先の一覧を見てもわかるように、時代順あるいは項目別に分かれているわけでもない。ここでは、記事の内容から四点だけ指摘おきたい。

1点目は、将軍継嗣に関する問題である。ペリー来航直後に就任した徳川家定は生来虚弱であったことから、その後継をめぐって一橋慶喜を擁立する一派と紀州藩の徳川慶福を擁立する一派が激しく対立し、いわゆる安政の大獄の一因となっていった。第二番では、③④においてそうした将軍継嗣に関する情報が書き上げられており、しかも情報の内容が水戸藩(茨城県水戸市)―一橋派のものに限られている。第二章において、「幕末風聞集」の作成者が紀州藩領松坂の商人ではないかと予想したが、こうした情報のあり方もまた、本史料が紀州藩側の立場に立って作成されたものではないかということを想起させる。

第2点目は、将軍家茂の上洛に関する問題である。ただし、これはあくまでも①の「蒼峯書取」に関する限りで取り上げるというだけで、将軍継嗣問題以後の諸事件、すなわち尊王攘夷派の動向や、安政の大獄、桜田門外の変、公武合体、和宮の降嫁、薩摩藩島津久光の率兵上洛に江戸下向といった問題についての情報が取り上げられているわけではない。唯一、坂下門外の変についての記事は見られるが(⑩)、将軍上洛そのものについても詳しい記事があるわけではない。後に述べるように「幕末風聞集」は、政治向きの記事が多いのだが、第二番ではこれらの重大事件についての記述はほとんどみられない。

第二番の根幹となるのは、⑦の後半から⑧⑨にある天誅組の変に関する情報であろう。天誅組の変は、周知の如く、孝明天皇の大和行幸決定を契機として、土佐の吉村虎太郎や備前の藤本鉄石らに率いられた尊王攘夷派が天誅組を結成し、文久3年(1863)に大和で挙兵した事件である。天誅組は、河内の庄屋層や十津川郷士などの参加をみて、大和五条代官所を襲撃して本陣とし、以後、吉野郡鷲家口村(現奈良県東吉野村)の戦いなどで壊滅するまで各地で大規模な戦いをくり返していた。この鎮圧には、諸藩の藩兵が動員されており、紀州藩からも兵を派遣している。紀州街道に対する警衛を固めたことは、第二章で触れたとおりである。実際、ここでは出兵に関する若山(和歌山)からの来状や情報なども書き上げられている。これが第3点目である。

いずれにしても、この天誅組の変に関する記述は非常に詳細であって、「幕末風聞集」のそもそものきっかけはこの事件にあったのではないかと推測させる。少なくともこの文久3年が、「幕末風聞集」が編纂される一つのきっかけであったことは間違いないであろう。

3.松坂城御城番屋敷(馬場撮影)

3.松坂城御城番屋敷(馬場撮影)

なお、この文久3年には、紀州藩から松坂城に御城番が派遣されることになったことが注目される。同年には、御城番となる40石取の紀州藩士20人用の組屋敷が建設されており、現在、この御城番屋敷は重要文化財に指定されている。松坂にとっても文久3年は、政治的・軍事的にも画期となった年であったといえよう。

第4点目は、⑤にみられるような類の風刺文芸が、収録されるようになるということである。川柳や風刺画、芝居の見立てなどの風刺文芸は、第三番と第四番にとくに多く、第一番と第五番にはみられない。このような風刺文芸については、その目的や意図についての考察も必要であるが、編者の能力におよぶところではないので、第三番、第四番を含めて、指摘だけにとどめておきたい。

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