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2007~2009年度プロジェクト
史料叢書「幕末風聞集」(史料集刊行)

解説

3.「幕末風聞集」の内容について(その2)

第三番

第三番以降になると、第一番や第二番のように内表紙や表題など、ある一定のくくりで内容を区分することができなくなってくる。そのかわり、第二番に比べると書かれている内容や時期が比較的はっきりしている。第三番の表題では、元治元年(1864)6月におきた壬生浪士、すなわち新選組と土佐藩士との「曙茶屋」、正確にいえば京都の「明保野亭」における騒動一件がまず書き上げられており、実際に内容もこの一件から始まっている。だが、第二番の坂下門外の変もそうであるが、表題に書かれているからといって、必ずしもそれに関する内容が詳しいかというとそうではない。一応、同年6月5日の池田屋事件にも触れてあるが、新選組についての記事はこれくらいである。

第三番で軸となるのは、①元治元年6月以降の京都における長州藩の動向と、同年7月の蛤御門の変(禁門の変)、②同年8月の四国艦隊による下関砲撃事件、そして③同年3月、水戸藩で起きた天狗党による筑波山(茨城県)挙兵事件、いわゆる天狗党の乱に関する記事である。一応、慶応元年(1865)の記事として、長州の処置に関する記事や天皇家の山陵の修補問題、あるいは風刺文芸などをみることができる。また、慶応三年の記事として、関所通行規則の改変についての触書が収録されているが、これは料紙も筆跡も異なっているので、後からつけ加えたものと思われる。したがって第三番は、ほぼ元治元年の記事でまとまっているといってもよいであろう。時間的推移も元治元年でいえば、6月から12月まで記事が一応時系列で並んでいる。とくに蛤御門の変までの経緯に関しては、ほぼ時系列であるが、七月に天狗党の乱に関する情報が入り出した頃から、多少時系列が前後するようになる。というよりも蛤御門の変から四国艦隊下関砲撃事件にいたる長州藩の動向に、天狗党の乱の情報がアトランダムに入り込んできて、それをそのまま書き上げているという感じを受ける。だから書き方としては、一見非常に杜撰にみえる。

ただし、これは第二番にもあるいは第四番・第五番にもいえることであるが、書かれた記事は、例えば戦闘の状況であったり、挙兵した具体的な人物や年齢、その生死や怪我、追討の状況など、非常に臨場感があって生々しい。情報源は、来状―書簡であったり、実録、聞書、あるいは風聞、噂などと称する雑多な情報であって、一種ルポルタージュのような感じさえ受ける。また、これに関連して集めた情報は、庶民の動向に関するものは少なくて、幕府や各藩の動向など、とりわけ政治向きのものに強い関心を示しているようで、実際詳しい。この二点は、本史料の大きな特徴といえよう。

蛤御門の変については、京都の警衛で紀州藩も派兵しているので、やはりその意味が大きいかと思われるが、同時に天狗党の乱についての情報の詳細さについても目を見張るものがある。天狗党の乱は、改めていうまでもなく、水戸藩の下級武士を中心とした尊王攘夷改革派が天狗党に結集し、田丸稲之右衛門、藤田小四郎、武田耕雲斎らを首脳として、筑波山に挙兵して各地で保守派の諸生派らと戦った、一大激化事件である。第三番では、天狗党の壊滅にいたる顛末まで、ある種執拗に情報を集めており、それだけ興味深いものであるが、その史料的な価値については、残念ながら、今後の研究にゆだねなければならない。

それにしても第二番の天誅組の変といい、第四番以降の長州征伐や鳥羽・伏見の戦いといい、作成者は、内乱あるいは内戦的な状況に強い関心を持っているようである。いずれも藩兵が鎮圧にあたるような大事件である。その分、外交的な問題は下関砲撃事件以外は、そう大きな関心を示しているとも思われない。例えば、「幕末風聞集」には、薩英戦争に関する記述はいっさい見られないのである。また、いわゆる世直し一揆のような農民蜂起の記事も見受けられない。その意味でいえば、もう一つの関心は、やはり水戸藩への眼差しということになろうか。将軍継嗣問題もそうであったが、天狗党の乱への関心もまた、水戸藩への関心の深さでもあるともいえる。その意味でも興味深いのは、前中納言、すなわち徳川斉昭の腹心であったという人物に、生前の斉昭の言動や思想について問い合せた御尋ねの書である(91頁)。この腹心が誰か不明であるし、聞き手も加州侯、これは加賀藩主の前田斉泰かと思われるが、水戸家の家来と加州侯が「当家」に罷り越したので、極密に重役より聞いたとある。内容はといえば、井伊直弼暗殺は斉昭の指示であったこと、斉昭自身は本居宣長の本居学に深く傾倒しており、それが思想や行動の根拠になっていること、斉昭はとくに天皇を廃そうとは思っていなかったものの、伊勢国に送って神官の司になってもらおうと考えていたことなど、結構、刺激的な回答が並んでいる。真偽の程はまだ定かではないが、本居学の件からしても「当家」を紀州徳川家と考えるには無理があるだろうか。

第四番

第四番は、それまでの巻と比べてもある意味内容がわかりやすい。時期的には慶応2年(1866)1月3日から9月25日までの記事が収録されている。内容的には元治元年12月に終結した第一次長州征伐の後、藩主毛利敬親・定弘父子と長州藩に裁定が下ってから、第二次長州征伐の開戦そして集結にいたるまでの記事を書き上げたものである。慶応二年段階のものにはなるが、第一次長州征伐後の交渉過程が詳細にわかる。とくに長州藩側の引き延ばし工作が興味深く、そこから第二次長州征伐への流れが時を追って詳しく確認できる。

第一次長州征伐後、長州藩に対しては、10万石の減封を課した上で、藩主敬親を蟄居隠居、定弘を永蟄居とすることを骨子とした処分が下されたが、これが拒絶されると、慶応2年6月5日をもって総攻撃を行なうことが公示され、32藩に出兵の命令が下された。そして6月7日の周防大島口(現山口県)での戦闘を手始めに、14日芸州口(現広島県)、16日石州口(現島根県)、17日小倉口(現福岡県北九州市)の、いわゆる四境で幕府郡と長州藩との全面対決となった。長州側で四境戦争といわれるゆえんである。

幕府側では紀州藩主徳川茂承が征長総督に任命され、紀州藩は前面にたってこの戦闘を指揮する立場となった。したがって、第四番に収録された具体的な戦況は主に紀州藩のものであり、幕府内部の情報も紀州藩にかかわるものが中心となっている。それだけにこれも第三番と同様、戦闘の状況が非常にリアルで詳しく、また幕閣や諸藩に関する情報そのものも高度に政治的なもので、それが日を追って詳細に書き留められている。それが第一の特徴である。その意味でいえば、尾張藩主徳川慶勝が征長総督を務めた第一次長州征伐に関する記述が「幕末風聞集」にいっさい出てこないのも示唆的である。

第二に、大坂からの来状がとくに多いのも第四番の特徴で、来状以外の情報を含めて、大坂の状況に関する記述がとにかく詳しい。実際の戦闘は慶応2年の7月であったが、将軍家茂は、慶応元年閏5月から大坂城に在陣していた。開戦まで1年以上にわたって在陣していたわけであるから、大坂にとってみても第二次長州征伐の過程というのは、実に大きな問題だったのである。大坂からの来状を含めたこれらの情報の史料的な価値もまた、今後の課題である。

第二次長州征伐の戦況に戻れば、慶応2年の正月には坂本龍馬の仲介で薩長同盟が結ばれており、四月の段階で薩摩藩は出兵を拒否していた。また、長州軍は、大村益次郎を中心とした軍制の改革で西洋式の軍隊に生まれ変わっており、奇兵隊をはじめとする諸隊の活躍もあって、各地でことごとく幕府軍を撃破していくことになる。第三番もそうであるが、「幕末風聞集」では、奇兵隊などの諸隊や幕府歩兵隊、そして新選組に新徴組、さらには農兵隊といった庶民を含む新たな軍事・警察組織について触れていることもまた、特徴といえようか。ただし、それぞれの記述内容が詳しいわけではない。また、戦況の中で最新式の「ミニヘール銃」の優秀性を高く評価している点も興味深い。

第二次長州征伐は、7月20日に大坂城にあった家茂が病没したことで停戦への流れが一挙に加速し、9月2日には安芸宮島(現広島県廿日市市)において休戦の協定が結ばれた。第四番には、休戦後の措置についても若干記述がみられるが、中心はやはり8月の戦闘までの状況である。風刺文芸が多く収録されいたことを差し引いても、第四番がもっとも分量が多いことは先に述べたとおりである。

第五番

五番には、慶応4年(1868)正月3日から4月22日までの記事が収録されている。第四番に続いて短い期間であるが、内容的には鳥羽・伏見の戦いから東征軍派遣にいたる過程の記事が収録されている。

慶応4年正月3日、薩摩討伐を名目に入京をめざして軍をすすめた幕府兵に会津(福島県会津若松市)・桑名(三重県桑名市)の藩兵らを加えた旧幕府軍15000人と、薩長を中心とする新政府軍4500人は、京都郊外の鳥羽・伏見の街道で激突した。数では三倍以上あったものの、装備と士気で格段に劣る旧幕府軍は、一日で退却を余儀なくされると、6日には戦闘が終了し、将軍徳川慶喜は、そのまま大坂を脱出して海路江戸に向かった。翌7日には慶喜追討の勅命が下り、9日には総裁有栖川宮熾仁親王を東征大総督とする東征軍が組織された。慶喜は12日に江戸城西丸を出て恭順の意を示したが、15日にいたり東海・東山・北陸の三道に分かれて東征軍の進軍が開始されたのであった。

第五番の「風聞集」は、内容的には大きく①鳥羽・伏見の戦いの戦況、②戊辰戦争前後の尾張藩関係記事、③桑名城開城関係記事、④官軍の東征に関する記事の四つに分けることができそうである。このほかにも単発的ではあるが、江戸や大坂の打ちこわし騒動に関する記事も収録している。ただし、これらの記事はまとまったものではなく、順次、必要な記事を書き連ねるような形となっている。

この中でも質・量とも充実しているのは、①の鳥羽・伏見の戦いと②の戊辰戦争時の尾張藩関係記事である。これまでと同様、それぞれの戦況に関する記述には臨場感があって詳細であり、やはりさまざまな政治的情報が精力的に集められている。とくに①では、これまでよりも京都、大坂、伏見、名古屋、江戸など、できるだけ多くの地域から情報を集めようとしているようすがみてとれる。また、慶喜蟄居後の旧幕府内部の状況に関する記述もたいへん興味深い。前年の大政奉還と王政復古によって、幕府そのものは終焉を迎えたのであるが、組織体としての「幕府」が正式に「解散」したわけではない。老中をはじめとする役職もまだ残っていたのだが、罷免するにしても「解散」するにしても、そのトップである将軍慶喜自身は蟄居の身である。逆にいえば、幕府瓦解、将軍蟄居という事態の中でも、その組織がまだ残っている以上は、何らかの指揮ないしは運営が必要であって、そうした時期の内部状況が垣間みえる史料として注目されるということである。

②尾張藩関係記事では、記録の形態が興味深く、日次の記事の間に日付の違う関係書類が差し込まれるような形をとっている。日記を基礎に後に再編集したと考えられるが、そうなると日記本来の筆者は尾張藩の関係者ということになろうか。ただ、これまでの第二番から第四番の「風聞集」が、紀州藩が中心であったことを考えれば、なぜここで急に尾張藩の記事が中心となるのか、若干、奇異な感じは否めない。なお、ここではイギリス・フランス・ロシア・アメリカ・イタリア・プロイセンの6か国の公使と、薩摩藩家老の小松帯刀との面談についての記事が詳細で興味深い(206頁)。尾張藩との関係でいえば、これは尾張藩が知恩院に入った英国公使への饗応を命じられ、御年寄代御用人の佐枝新十郎が謁見にかかわっていることと関係するものかと思われる。

③桑名城開城関係記事もまた、鳥羽・伏見の戦い後の状況を物語るものである。この戦闘においても旧幕府軍に援軍として参戦していた桑名藩は、京都所司代を勤めていた藩主松平定敬が、実兄で京都守護職の任にあった会津藩の松平容保、そして一橋慶喜とともに、いわゆる「一会桑政権」を形成して、幕末の京都における政治を主導したとされる(家近良樹『幕末政治と討幕運動』吉川弘文館)。記述の量としては多くはないが、ほかの記事に挟まれる形で、勅使の派遣から桑名城の接収決定にいたるまでの経緯が書き上げられており、桑名藩のその後という点でみても興味深いものといえよう。④については、東征軍の軍団編成のほか、具体的には、関東から東北にかけての戦況を伝えた江戸からの来状が二通収録されているだけである。

第五番では今一つ、年号表記について注目しておきたい。表題に慶応4年と書かれている以外、中はすべて「明治元年」で統一されているのである。慶応から明治への改元が9月8日であったから、少なくとも第五番は明らかに明治になってから編纂されたものである。では、第四番以前の各巻についてはどうなのだろうか。第一番が別巻である可能性については先に指摘したが、第二番以降でも「藩」という文言が多用されていることをどうとらえるかなど、各巻の成立時期については今後も検討が必要であろう。

それにしても「幕末風聞集」は、幕末に起きたさまざまな歴史的事件などをまんべんなく集めたというよりも、作成者が重要だと判断した事件の情報を集中的に、かつ詳細に扱っていったところに大きな特徴がある。それだけ内容にもかたよりがあるわけであるが、その基準は何なのか、そもそもどうしてこうした編集方針がとられたのか、興味は尽きない。

文責:東海大学教育研究所准教授 馬場弘臣

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