江戸時代の地域ネットワーク論 その1

歴史コラム
江戸時代の地域ネットワーク論 その1

ただいま書いている論文は、相模国における文化的なネットワークに関するものです。地域ネットワーク論は、近年の江戸時代史研究における流行の一つであるといっても過言ではないでしょうね。実際、私が所属する小田原近世史研究会では、ネットワーク論に関する論集を刊行する予定だそうです。だそうですというのは、ちょうど私が書こうとしていることと、ダブってしまって、小田原近世史研究会の方は断念せざるを得ないと思っているからです。昨年には、東洋大学の白川部達夫先生の研究会で発表したものをまとめました。これは相模国中央部の在郷商人たちによる報徳仕法のネットワークについて検討したものだったのですが、同時に経済的なネットワークについて考察したものになっています。そもそも報徳仕法を導入するということ自体が経済的な問題ですからね。

江戸時代の後期から幕末期によく「豪農」と呼ばれる概念が登場します。詳しくは佐々木潤之介先生の『世直し』岩波新書(1979年)を読んでいただきたいのですが、ここで豪農とは、近世後期の商品生産と貨幣経済の発達に適応して多角経営を行なっていく階層のことで、①地主経営(小作経営・手作経営)、②高利貸経営(金融業・質屋)、③商品生産者の3要素をあわせもつものと定義されています。もちろん、これらを全面的に展開する豪農も存在しますし、そうとは言えないものも存在します。その多様性を認めた上で、1980年代以降には、中間支配機構や組合村論の具体的な研究が進展したことによって、こうした存在の経済的な側面だけではなく、地域における行政的な側面、地域リーターとしての側面、あるいは社会権力の側面などが議論されて来ました。まぁ、私もその一環として小田原藩の取締役制や組合村の研究をやっていたわけです。

ただ、視点を小田原藩領から東へ移すと、ここにはちょっと違った光景が広がっています。主には『大磯町史』を担当していた頃に感じていたことで、『大磯町史』の通史編でも触れています。

そこから発展して考えると、先にあげた3つの要素をすべてもっているような「豪農」は相模に存在した形跡はなく、そもそもそうした文言にこだわったら、事実を見失ってしまうんじゃないかという懸念です。だから、ここでは「在郷商人」という側面をことさら強調しています。

とはいえ、この報徳仕法のネットワークというのは、そもそも伊勢原村の加藤家、大磯宿の川崎家、片岡村(平塚市)の大沢家、それに三浦半島は東浦賀の宮原屋一族を中心とした婚姻・親戚のネットワークだったのです。この話はまた続けましょう。とりあえず、この報徳仕法のネットワーク図を載せておきますね。何せ、論文ではモノクロになっていましたから。あ、ここに出てくる片岡村に真田村は東海大学湘南キャンパスに隣接する地域です。湘南キャンパスが立地しているのは、江戸時代の北金目村です。「湘南」といいつつ、実態は、相模平野のど真ん中なんですね(^^;)

ゼミ生たちも頑張っていることだし、私も頑張らねばなりませんね!!

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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