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小田原藩士230年の記録 「吉岡家代々由緒書」その2

このコラムのタイトルは、小田原藩士230年の記録「吉岡家代々由緒」としていて、翻刻した史料集のタイトルも同じにする予定であることは前回述べた。一般的に、この場合「小田原藩士」とすることは間違いとはいえないであろうし、実際、タイトルにもそのようにいれるつもりである。

大久保家が小田原を拝領したのは、天正18年(1590)の小田原の陣で北条氏が滅んだ後、徳川家康が関東に移封するにあたって、忠世(ただよ)を小田原城主としたことに始まる。ところが、2代の忠隣(ただちか)が改易処分を受け、その後は、番城時代を挟んで阿部正次が、寛永9年(1632)からは稲葉正勝が拝領し、貞享2年(1685)まで、正則、正通と3代にわたって稲葉家が藩主を務めることになる。そして翌貞享3年(1686)に大久保忠朝(ただとも)が、下総国佐倉(千葉県佐倉市)から8万3,000石で入部している。大久保家ではこれを「小田原再拝領」と称している。下の図は小田原藩の歴代藩主の一覧である。

歴代小田原藩主一覧

もちろんながら、この表には吉岡家初代実疑(さねよし)の仕官は表記されていないことになる。そこで、次に大久保家歴代当主の一覧を掲載しよう。

大久保家当主歴代一覧表

当たり前といえば当たり前だが、小田原藩主は16代なのに対し、大久保家は14代である。先の続きでいえば、忠隣が改易になった後、武蔵国騎西(埼玉県加須市)に2万石を領していた忠隣の子忠常が本家相続を認められ、その子忠職(ただもと)の代に、美濃国加納(岐阜県加納町)、播磨国明石(兵庫県明石市)、肥前国唐津(佐賀県唐津市)と3度の転封を繰り返し、5代忠朝の代に、念願の父祖の地、小田原に戻ったのであった。その間、加増を繰り返し、小田原に転封になった際には8万3,000石となっており、老中を務めた忠朝の代に11万3,120石まで加増を受けたのであった。

実疑が仕官をしたのは4代目忠職の代で、播磨国明石藩時代のことである。その後、肥前国唐津藩を経て、小田原へと転封するのであるが、その頃には代も忠職から忠朝に変わっていた。実疑が重政に家督を譲ったのは貞享4年(1687)のことであったから、小田原拝領早々のことであった。

いずれにしても、吉岡家が小田原藩士となるのは、正確に言えば2代重政からのことである。江戸時代では、藩主-藩士が表記の基準となるので、こうした場合はどうしたらいいのか。大名家当主-家臣をうまく表現する方法はないかとふと考えてみたりもする。まぁ、ほとんどは小田原藩時代なので「小田原藩士」でいいかなと思ってはいる。これらもまた、江戸という時代の武士社会の関係を示しているといえよう。

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投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
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