Professor's Tweet.NET

小田原藩士230年の記録 「吉岡家代々由緒書」その3 小田原藩の家格と吉岡家

江戸時代の武士は、さまざまな「家格」に彩られている。それにはもちろん藩によって違いはあるが、共通点も多い。「平和」の時代になったとしても、藩という組織は軍事を基本としたものであったから、基本的には共通点を持ちながら、藩ごとにバリエーションがあったといった方が正確であろう。もちろん、藩の家格は変化することもある。吉岡家のように途中で仕官した家は、藩に定着するに従って石高をはじめとする家格も変化していくことになる。「吉岡家代々由緒書」については、まだ精査がすんでいないので、小田原藩において定着した「家格」で確認しておこう。

まとめれば、吉岡家の家格は、家禄は知行高340石で、御番帳入、番頭の格席、明石仕官の家柄である。

家禄には、下図のように、大きく分ければ知行取蔵米取の違いがある。知行取は本来「知行」として石高で土地が与えられるが、実際には知行高に応じて藩庫から米が支給される場合も多い。これに対して、藩庫から切米・切金や扶持米などの形で米金が直接与えられる場合を蔵米取という。したがって、知行高分が藩庫から支給される場合は、蔵米知行と呼ばれた。知行取でも蔵米取でも藩庫から支給されれば、これを俸禄米といい、制度として俸禄制という。小田原藩は、蔵米知行と蔵米取による俸禄制である。

小田原藩の俸禄米は、知行高100石に対して40%、すなわち40石が米支給額であった。小田原藩の俵詰めは、1俵=3斗7升詰めであったから、知行100石あたり108俵となる。吉岡家は知行高340であるから、366俵6斗6升が支給額であった。

天保4年(1833)頃の小田原藩の場合、杉浦平太夫家の1,500石が知行高のトップであり、吉岡家はだいたい30番台のはじめに位置している。小田原藩の家臣は、足軽クラスまでまでなら小田原、江戸詰め、大坂・京詰めを含めて大体1,020名程度である。小田原藩では、こうした藩内の階層を「御番帳入」「御番帳外」「諸組附」の3つに分けている。「御番帳入」は正式の士分で、「侍分」とも呼ばれている。大雑把に言って戦場で騎乗が許される身分である。「御番帳外」は「歩行(かち)」身分のことで「諸組付」はいわゆる「足軽」身分のことである。「諸組付」は番頭や奉行などのもとで「組」に編成されていた。その下に非戦闘員としての中間(ちゅうげん)以下があった。なお、「御番帳外」と「諸組付」の間には「組抜之者」「組並」といった身分もあった。

「御番帳入」の家臣は、天保4年段階で625名であり、吉岡家は小田原藩内では上級家臣にあたっている。

次に「番頭」の格席についてであるが、番頭は本来騎乗の武士を指揮する身分で、「侍大将」とも呼ばれる。つまりは戦場での役職の一つである。ただし、小田原藩の場合は、「番方」(軍事部門)「役方」(行政・財政部門)に寄らず、こうした役職を家の格=家格として固定化していた。これを格席もしくは「順席」といった。だから吉岡家の家柄=格席=順席は、「番頭」の家ということになる。念のために言っておくが、番頭の家柄だからといって、必ずしも番頭を勤めるわけではなく、あくまでも家格であるから、役職は別に勤めるのが一般的であった。実際、吉岡家は、3代信正、4代信郷、5代信基は役方役人である御勝手方として活躍しており、年寄役も勤めていた。もっとも武家社会では、「役方」は「番方」より下に見られるのが一般的で、「御勝手方」を勤めることになった際には「番頭の家なのに…」といって信正の母が嘆いたといった記事が「吉岡家代々由緒書」にも書かれてあった。ここでは参考までに、小田原藩の順席(格席)の図をあげておこう。

これはあくまでも「順席帳」をもとにした図であって、小田原藩の役職をすべてを表したものでないことを断っておきたい。

最後に「明石仕官」の家柄についてである。既報の通り、大久保家は2代忠隣の時に改易となり、後に武蔵国騎西に2万石を領していた嫡子の忠常が本家を継ぐことになった。その後、忠職と忠朝の2代にわたって、美濃国加納、播磨国明石、肥前国唐津、下総国佐倉と転封を繰り返して、貞享3年(1686)に小田原に戻ったわけであるが、その間に2万石から10万石余まで拝領高が増えているので、当然ながらたくさんの家臣を仕官させなけらばならなかった。吉岡家は明石で仕官したわけであるが、小田原藩ではこの仕官地もまた家格の一つであった。下表は家臣を出身地・仕官地ごとにまとめたものである。

戦国の三河国・遠江国時代、天正19年(1590)の小田原藩時代=「古小田原」から小田原再拝領時の「小田原」仕官まで8つの出身地・仕官地と、これとは別に忠朝の御供18家と「別帳」とされる5家を含めた10の階層に555家が分かれていた。内、本家が470家で、この仕官地の家筋に入っていること自体がやはり一つの家格であった。

Amazon.co.jp ウィジェット

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
モバイルバージョンを終了