Professor's Tweet.NET

小田原藩士230年の記録「吉岡家代々由緒書」 その5 吉岡実疑の仕官と加増

今日で3月も半分が過ぎますね。毎日のように書いていますが、新型コロナウィルスで騒がしい毎日です。新学期はどうなることでしょうか?

吉岡家代々由緒書」の校正については、とにかく膨大なものですから、ただいま4名体制で進めております。史料の枚数(頁数)もですが、とにかく文字が細かいので、必然的に量が多くなります。何度か原文書と照らし合わせる必要があるでしょうから、信頼できる人たちにお願いしています。

本日は吉岡家初代の実疑(さねよし)についてのお話です。

吉岡家の初代実疑(さねよし)が、寛永19年(1642)に当時播磨国明石藩主であった大久保忠職(ただもと)に仕官したことは、「その2」で述べたとおりである。「吉岡家代々由緒書」によれば、実疑の父九左衛門は安芸国毛利家の家中で、実疑は喜多見勝重とその子重勝の計らいで大久保家に仕官したという。勝重は桓武平氏秩父氏の一族で、武蔵国荏原地方に勢力を張った江戸氏の庶流であるという。小田原の陣の際には、北条家の家臣として小田原城に籠城して戦ったが、家康が江戸に入った際に家康の麾下に入り、世田谷の喜多見に500石を与えられたことから、苗字を江戸から喜多見に改め、実名も勝忠から勝重に改めたといわれている。後には旗本として知行高2000石まで加増されていた。重勝は勝重の3男で、重勝の家督は嫡男の重恒が継いだが、1000石を分け与えられたという(後、1500石)。

勝重は、遠州流の茶人小堀遠州(政一)と親しく、その影響で重勝も遠州に師事する一方、宗可流の祖であった義兄・佐久間実勝にも茶の湯を学んでおり、両流派を総合した流派喜多見流の祖となった。実疑とのつながりも父九左衛門ともども茶の湯によるものかもしれないが、今後の課題である。

実疑が忠職に仕官したのは元服前、18の歳で、当時は丑千代といい、切米20石・2人扶持で召し抱えられることになった。仕官した後に儀七郎と改め、翌寛永20年3月5日、忠職の御前において元服し、新知として200石を拝領した。また、御使番之上を拝命して、江戸麻布六本木に居住したという。正保3年(1646)頃には義太夫と改名して、「侍組割帳無組之内」となった。

慶安2年(1649)7月4日、忠職は、播磨国明石7万石から1万3000石加増の上、肥前国唐津8万3000石に移封した。実疑は慶安4年(1651)に240石に加増されているが、この唐津への移封も関係しているのであろうか。

ところが、寛文4年(1664)12月、江戸勤番の際に祐筆の木村安右衛門なる人物から勤め方について遺恨を受け、脇差しで切りつけられるという事件に巻き込まれる。大久保家の御法にゆれば、切腹を申しつけられるべきところ、安右衛門が乱心同様であったとして、実疑は喜多見家にお預けとなった。しかしながら、翌寛文5年には、50石の加増を受け、都合290石で大久保家へ召し返しとなり、唐津で御先手頭兼御屋敷奉行を拝命、その後御屋敷奉行兼帯は御免となり、寺社奉行目付役兼帯を拝命した。また、寛文8年(1668)に忠職が九州探題職を拝命すると、実疑は長崎御備場御用を拝命し、幕府から三葵の御紋付時服2領を拝領している。

寛文10年(1670)4月9日、忠職が卒去する。ただし、それ以前、3月8日に大久保忠憐の三男教隆の次男で、忠職の従兄弟にあたる旗本の忠朝(3000石)が養子となっていた。忠朝が家督を継いだのは6月13日のことであった。その後実疑は、延宝5年(1677)5月8日付で、忠朝の嫡子忠増が22歳の時に忠増付の御用人(傅役)を拝命し、江戸定府を命じられた。なお、忠朝はこの年の7月25日に幕府老中となり、出羽守から加賀守に遷任すると、翌延宝6年1月23日に下総国佐倉に8万3000石で国替えとなっている。

その後の実疑は、もっぱら「接待」的な役割を拝命するようである。延宝8年(1680)4月18日には、忠朝が江戸城二ノ丸にて将軍家綱に茶を献ずることになったことから「留守にて客衆并諸事」を仰せ付けられている。また、天和2年(1682)4月13日には琉球使節の帰国にしたがって、家老の杉浦平太夫とともに応接役を、同年8月21日には朝鮮通信使の来朝について忠朝が接待役を命じられたことから、岩瀬長左衛門等とともに応接役を命じられた。

そうした中、貞享3年(1686)1月21日に忠朝は、1万石加増の上、相模国小田原10万3000石(後、11万3000石)への国替えを拝命することとなる。大久保家にとってみれば忠隣以来、父祖の地へ戻ることになったのである。これを大久保家では「小田原再拝領」と称している。この年の12月28日には、実疑の嫡子小膳が元服して儀大夫正興と改名し(実疑は前年に儀大夫から半右衛門に改名)、組迦并取次役を命じられ、切米20石が下された。

大久保家が実際に小田原に移ったのは、翌貞享4年(1687)3月のことであった。実疑は、この時、小田原上幸田町の前小田原藩主であった稲葉家正通家臣柳彦兵衛跡の屋敷に住居することになった。ただし、12月28日に実疑は老年になったということで、隠居願いを提出し、正興に家督を譲っている。この時、正興の切米20石は高に直して50石加増となり、都合340石を拝領することとなった。実疑63歳の時で、実疑は一玄と改名し、隠居料として5人扶持が下されることとなったのである。吉岡家知行高340石はこうして成立したのであった。

復元小田原城

Amazon.co.jp ウィジェット

Amazon.co.jp ウィジェット

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
モバイルバージョンを終了