小田原藩士230年の記録 「吉岡家代々由緒書」その6 小田原藩御勝手方

歴史コラム
小田原藩士230年の記録 「吉岡家代々由緒書」その6 小田原藩御勝手方

御勝手方もしくは御賄方という、要は藩の財政を預かる役職である。台所のことを御勝手というが、ほぼそれと同じような意味である。以前書いたように、藩の組織には番方と役方があって、番方が軍事部門を担当するのに対し、役方は行政・財政部門を担当する。江戸時代に入って時代が進むと、「平和」の体制が確立して、藩の仕事も次第に軍事より行財政が重視されるようになってくる。大久保氏小田原藩の場合には、御勝手方と御賄方と両方史料に出てくるが、ここでは御勝手方に統一しておきたい。

吉岡家8代の内、御勝手方を務めたのは、4代信正、5代信郷、6代信基の3人であった。

吉岡家8代

家督の年代をみれば、宝暦(1751~1764)から天保期(1830~1844)にわたることがわかる。実際には文政期(1818~1830)までであるが、それは後に回すとして、信正が御勝手方を務めたのは、宝暦7年(1757)のことであった。この年の4月、藩主の大久保忠興は、江戸・小田原の「御暮方」が「根本の不足」で、年々借用を持って凌いでいる有様であるとして、その改正を命じた。この時に真名子要右衛門・山田典治とともに、その取り扱い方を命じられたのが、吉岡太七信正であった。当時はまだ父又右衛門信正が年寄役を務めていたにもかかわらず、まだ部屋住みの身分で登用されたのであった。信正はすでに宝暦元年(1751)に郡奉行に任じられていた。今回はそのまま兼任を命じられたのであったが、同年11月には真名子・山田の両名とともに御勝手方専任を命じられている。いずれにしても異例の登用であった。ただし、信定はすでに36歳になっていた。

信正は、その性質が「廉直剛勢」で物事に対して潔白、意地が強かったために忠興も「吉岡儀大夫(信定)の腹の座り具合は、箱根の山が崩れても動かぬ気性也」と大のお気に入りだったという。その信正がもっとも苦労したの「座頭金(ざとうがね)」の問題であった。以下続く。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

コメントを残す

コメントを残す

«
  • LINEで送る