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#青天を衝け 安政将軍継嗣問題 血統を読む

昨日は、安政5年(1858)7月6日に亡くなった13代将軍徳川家定の将軍継嗣問題について、南紀派と一橋派の勢力図を紹介しました。よく言われているように、御三家紀州藩主の徳川慶福(後の家茂)を推す南紀派は、「伝統的血統論」を主張し、御三卿一橋家の慶喜を推す一橋派は、幕府と雄藩との連合体制あるいは統一連合体制を望んだといわれています。そこでこの時期の徳川家関係の人々がどのような血統関係になったのかをみるために作成したのが下記の図です。

実はこの図も4年前に作成したものにちょこっと手を加えているだけです。さらにこれも実は、小田原藩主大久保忠礼の血統を明らかにするというもう一つの目的があって作成しました。

8代吉宗の後、9代家重、10代家治の後は直系では血筋が絶えますから、一橋家の家斉が世嗣となります。家斉は一橋家2代徳川治済は宗尹の四男として生まれますから、吉宗の孫、家斉はひ孫ということになります。それから家斉次男が12代家慶となり、家慶の四男が13代家定となります。

そして慶福の父紀州藩主徳川斉順(なりゆき)は家斉の七男で、最初に御三卿の清水家2代当主として養嗣子に入り、その後11代紀州藩主となります。紀州藩では斉順の後を弟の斉彊(なりかつ)が継ぐのですが、斉彊もはじめは清水家に養子として入っています。

いずれにしても家慶と慶福は従姉妹同士になる訳で、吉宗に始まる紀州系の流れを色濃く継いでいるわけですね。これに対して、慶喜は、確かに一橋家に養子には入っていますけれど、水戸藩の徳川斉昭の七男ですから、それまでの系統とは少し外れることになります。でも、御三家から御三卿に養子に入ったわけですから、十分資格はあります。ただ、慶福に比べるとさすがに弱い。逆にそうしたしがらみを考えずに継嗣を選ぶとなると、血統的にも慶喜は十分です。慶喜は優秀だったとか、賢明だったとか言われていますが、案外、そうした意味で連合体制を模索する連中に担がれたのかも知れませんね。一橋派は、それこそ攘夷派から開国推進派まで結構、幅が広いですから、これまた案外、適任だったということかも知れません。攘夷論者であった斉昭も、幕政を動かすには自分の息子を将軍にするのが一番ですから、そうした意味では、多少主張を抑えてもということかもしれません。

いずれにしても、一橋派の中で鍵を握っているのは、越前福井藩主の松平慶永(春嶽)だと思って間違いはないのでしょう。そもそもそうした諸藩との協調路線をとったのは老中阿部正弘でしたから、このラインが基本線なのでしょう。慶永の父斉匡(なりまさ)は、一橋徳川家2代当主徳川治済の五男で家斉とは異母兄弟になります。ですから家斉は慶永のおじ、家慶は従姉妹ということになりますね。

ついでに斉昭の弟松平頼恕(よりひろ)は、に高松藩主・松平頼儀の婿養子となり、その五男が相模小田原藩大久保家の養子に入って「大久保忠礼」と名乗ります。斉昭は伯父、慶喜は従姉妹という関係になります。慶喜とは京都守衛に出張していたときに懇意になったようで、それが幕末の箱根戊辰戦争の一つの要因になってゆくのではないかと思っていますが、その話はまたいずれ…。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
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