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『幕末風聞集』⑦ 佐久間象山暗殺

それにしても暑いですね。朝、ゴミ出しに行っただけで真夏の陽ざしが背中を刺すようでした。

本日も『幕末風聞集 増補改訂版』第三番から1点史料を紹介しましょう。69ページ!佐久間象山(さくましょうざん)の暗殺に関する史料です。

                     松代藩 佐久間修理 五十才計り
この者西洋学を唱え、交易開港の説を主張し、枢機の方に立ち入り、 御国是を誤る大罪捨て置き難く候処、剰(あまつさ)え近日奸賊会津・彦根の二藩に与(くみ)し、同じく 中川宮にも事謀り、恐れ多くも九重 御動座(ごどうざ)彦根城に移し奉る義(儀)を企て、唯今(ただいま)頻(しき)りにその機会を窺い候大逆容(い)れるべからざる天地国賊にて、即(すなわ)ち今日三条木屋町において天誅を加える者也。
  但、斬首(ざんしゅ)一つ梟木(ぎょうぼく)に掛け候処、日尽し候に付きその義(儀)能(あたわ)ざる者也
  元治元子七月十一日          皇国忠義士
右は七月十一日夕七時頃、木屋町三条上ル二丁目馬上にて供人六人計り召し連れ候処、後より馬の尻を切り候故、馬驚き刎()ね候故、佐久間馬より落候処討ち取り候由、 中川宮様より帰り懸(が)けの由、この書附丸太町又は祇園社・三条大橋三ケ所に張り紙致し候由、切り殺致し候氏士両人の由。

佐久間象山は、信濃国松代藩真田家の家臣で、西洋学者、思想家、兵法者として知られていますね。修理(しゅり)は通称名で、実名(じつみょう)は啓(ひらき)、象山は号です。私なんぞは大昔は(ぞうさん)なんぞと呼んでおりました(^^;)天保10年(1839)に江戸で塾を開き、西洋兵法学を勝海舟や吉田松陰らに教える。ペリー来航時には、松陰の密航企画に連座して処罰を受ける。貿易や海外進出論を唱え、幕府の雇士になるが、京都で尊王攘夷派により暗殺されるとあります(『岩波日本史辞典』より)。象山の暗殺が、元治元年(1864)7月11日のことで、まさにその日付に「皇国義士」の名で出された張り紙の写しということになります。

この者は西洋学を唱えて交易開開港の説を主張し、枢機つまり幕政の中枢に取り入って国是を誤る輩でこのまま放っておくことはできない。その上最近は、奸賊の会津藩・彦根藩の2藩と結託し、同じく中川宮(なかがわぐう)すなわち久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)とも謀って、恐れ多くも九重(ここのえ この場合は孝明天皇をさす)彦根城に移そうという謀議を企て、ただいまはしきりにその機会を窺うなどの大逆(たいぎゃく)はとても容認することができないこの世にない国賊なので、今日、三条木屋町において天誅を加えた。ただし、本来ならばさらし首を梟木に掛けるつもりであったが、時間もなかったのでそれは叶わなかった。

要約するとこんな内容になります。久邇宮朝彦親王(1824~91)は、出家して奈良一乗院門跡、のち京都粟田口青蓮院門跡となっていたのですが、いわゆる将軍継嗣問題では一橋派に属して蟄居を命じられるなど、政治的な動きも顕著でした。ただ、孝明天皇の信任も厚く、この前年、文久3年(1863)には還俗して、いわゆる公武合体派の重鎮として八月十八日の政変を主導して、尊王攘夷激派との対立を深めていました。洋学者で開国論の扇動者で兵法学者の象山が、当時の政局で中川宮や会津藩、薩摩藩、彦根藩と通じていたというその立場が、尊王攘夷激派の標的となったということですね。

この張り紙には続いて、7月11日の夕7つ時ですからだいたい現在だと3時半くらいになりますか。象山が木屋町三条上ル2丁目を馬上で供の者6人を連れて通っていたところ、後ろから馬の尻を切りつけられ、馬が驚いて跳ねたために馬から落ちたところを討ち取ったとあります。また、この時は中川宮からの帰りがけであったとのことでした。さらにこの書附については、丸太町・祇園社・三条大橋の3か所に張り紙をした、象山を切り殺したのは2人であったとも書かれています。暗殺者については、熊本藩士の川上彦斎(かわかみげんさい)らの名前が挙がっています。川上は土佐藩の岡田以蔵らと並ぶ「人斬り」として有名で、「るろうに剣心--明治剣客浪漫譚-」の主人公緋村剣心の幕末時代の人斬り「緋村抜刀斎」のモデルでもあったといわれていますね。

こちらの画像は、国立国会図書館「近代の肖像」からの引用です。URLは下記の通りです。

https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/91.html

 

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
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