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『幕末風聞集』⑧ 禁門の変前夜その1

 

雨が凄いですね。線状降水帯が九州から中国地方、果ては東北地方まで伸びています。実家の福岡も雨が止まないとぼやいていました。実家は洪水の被害は心配ないのですが、あまおうのイチゴ畑の隣に悪水路(田んぼの水を落とす川です)あって、こちらの方が心配です。川底も遠くて小さい川なのですが、30年ほどまでに田んぼが流されたことがありますので…。

さて、気を取り直して、本日は『幕末風聞集 増補改訂版』第三番から禁門の変前夜、総大将で家老の福原越後に率いられた長州藩兵が、京都の山崎(京都府乙訓郡〈おとくにぐん〉大山崎町)に集結する部分を読んでみたいと思います。66ページです。また、書き下し文にします。

六月二十三日昼八ツ時頃(午後2頃)長藩宿割の由、侍四人駕籠か鉢巻抔(など)致し、鑓壱本持たせ河州楠葉(くずは)宮津侯出張所前通られ候に付き、宮津より橋本表塩弥方に取り留め置き相尋ね候処、明日長藩四百人計り通行関東表へ罷り越し候由申し立て候由にて、即刻宮津より騎馬にて京都所司代へ伺いのため夕七ツ時頃(午後4時半頃)出立、夕気(夕方カ)京着相伺い候処、関東へ罷り下り候儀候はば、出張所過ぎ通り候も苦しからざる旨、夜五ツ時分(午後8時半頃)御下知(おげち)これ有り候由にて、同夜九時頃(午前0時頃)宮津陣屋へ罷り帰り候由、彼藩二十三日は牧方(ひらかた)泊りにて、翌二十四日五ツ時頃(午前7時半頃)より別紙の人数楠葉通行致され、割羽織(さきばおり)・袴(はかま)・筒襦袢(つつじゅばん)・陣笠・韮山笠(にらやまがさ)着込み、或は甲(かぶと)を冠り候者もこれ有り。紅白の旗を携え、陣太鼓もこれ有り。和筒火縄も用意、異形(いぎょう)の行列にて通行、昼支度淀宿河内屋方、同夜伏見宿泊り、惣大将福原越後(ふくはらえちご)外に藤田雅楽(ふじたうた)・河原田某(かわらだなにがし)・林某(はやしなにがし)外に壱人、都合五人騎馬にて楠葉穏かに通行、国元は当五日出立、関東へ罷り越すの旨申し立て候得共(そうらえども)、事実不分明、幕船印附き船外に荷物舟もこれ有り。然(しか)る処同日八時頃(午後2時頃)淀へ船にて凡そ四百人計り船十艘へ乗り山崎渡し場へ着舟、追々上陸離宮八幡へ屯(たむ)ろ致し、頭取候者は自ら狩衣(かりぎぬ)・風打(風折の誤記:かざおり)烏帽子(えぼし)弐人計り、この外山伏体(やまぶしてい)の者多分随身(ずいしん)、大小炮(だいしょうほう)等携え居り候得共、委(くわ)しき員数相分らざる由、凡そ行列左に記す。

右山崎へ罷り越し候人数聢(しか)と分らず候得共、同所天王山又は離宮八幡際(ぎわ)に何れも幕を張り、厳重に宿陣、昼夜見廻り、陣鍋・粮米等荷物は舟にて取り入れ候由、尤(もっと)も一向静謐(せいひつ)に乱防等の儀一切これ無き由。

元治元年(1864)6月23日のこと、長州藩の侍4人が河内国楠葉(大阪府枚方市)の宮津藩の出張所の前を通ったので、宮津藩から橋本(京都府八幡市)の塩弥方で引き留めて訳を尋ねたところ、明日長州藩士400名ばかりが関東へ罷り越すという。早速、宮津藩より騎馬で京都所司代に窺い出たところ、関東に向かうのだったら出張所を通っても構わないという返答であった。宮津藩は丹波国宮津(京都府宮津市)に居を置く藩で、当時は松平(本庄)氏が7万石で領有していた。楠葉は現在の大阪府枚方市の地名で、淀川左岸の要地であったという。

長州藩は23日は枚方に泊って、24日は午前7時半頃に楠葉を通行した。長州藩士らは割羽織(馬に乗るために背中の下半分を縫い合わさずに避けたままにしたのもの。打裂羽織〈ぶっさきばおり〉などともいう)や袴、筒襦袢、陣笠、韮山傘などを着込み、中には兜を被った者もいて、紅白の旗や陣太鼓を持ち、火縄銃も用意した「異形之行列」であったという。

24日の昼の支度は淀宿(京都市伏見区)の河内屋方で、同夜は伏見宿(同市同区)に泊り、総大将の福原越後ら5人は、騎馬で穏やかに楠葉を通行したとある。一行は5日に国元を出立し、関東に向かうと言っているが、事実は不分明であると書かれているのは興味深い。実際、一行は幕舟・印付き舟その他荷物舟も用意して、24日の午後2時頃におよそ100人ばかりが舟10艘に乗船して、淀(京都市伏見区)から山崎(京都府大山崎町)の渡し場へ着舟。追い追いと上陸して、離宮八幡宮に集結した、頭取は狩衣に風折烏帽子(風で吹き折られた形の烏帽子の意味で、頂辺の峰の部分を左または右に斜めに折った烏帽子のこと)姿が2人で、ほかは山伏の風体をした者が多く付き従っていて、大小の鉄砲を抱えていたけれど人数はわからないおおよそは左の通り。

この部分は、書き下しにしにくいですし、表にもしにくいので、そのまま画像にしました。

こうして合計427人とありますけれど、人数ははっきりとしないと言いつつ長州藩士いや武装した藩兵たちが、山崎に集結して、天王山や離宮八幡宮の近くに幕を張って厳重に宿陣を敷き、昼夜を限らず見廻りをし、陣鍋や兵粮米などは舟で搬入したけれど、一行はすごく静かで乱妨(乱暴)などは一切しなかったとあります。何やら決戦前夜の雰囲気が充満していますね。

427人の内訳をみますと「頭取之者壱人」というのが福原越後で、「馬上」とあるのが藤田雅楽以下の官武を示すのでしょう。「侍」は正式の士分で、その他いわゆる槍持ちとか鉄砲持ちなどの足軽に中間などの支援部隊も含まれていると思われます。鉄砲が和筒すなわち火縄銃の他に洋式小銃のゲベール銃も準備されていたことがわかります。ただし、ゲベール銃は前装式の滑腔銃身、すなわち先込め式の銃でまだ銃身内部に螺旋が切ってない銃なんですね。銃身の螺旋をライフルと言って、だからライフル銃なんですよね。その後、急速にミニエー銃などの元込め式のライフル銃に置き換わりますから、この時の長州藩の装備というのは和洋半ばするものと言えるのでしょう。

ということで、つづきはまた!

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
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