『幕末風聞集』⑨ 禁門の変前夜その2

歴史コラム
『幕末風聞集』⑨ 禁門の変前夜その2

『幕末風聞集 増補改訂版』第三番、66ページ。今回は前回の史料の続きです。今日は早速、書き下し文にしてみましょう。

一、最初長藩より郡山へ差し出し候書面の趣は、昨年八月以来最早壱ケ年に及び候得共(そうらえども)、攘夷の御沙汰もこれ無く、この外稲葉長門守殿所司代中に申し立て候趣もこれ有り候処返答これ無なし。これより伺い度(た)く万一大方にて相分らず候はば、一ツ橋殿へ罷り出で、それぞれにても相分らず候はば、関白殿へ罷り出で候積りの由申し立て候趣風聞。
一、長藩中至って穏やかにて、山崎八幡宮暫(しばら)く参詣致し度き旨郡山へ申し立て罷り越し、舟より山(崎脱カ)迄の運び人足貸抔(など)過分取らせ候に付き、所の者共気受け大いに宜しく候由。
一、昨日来一ツ橋殿より御使い山崎屯所へ再三これ有る由。先き事申し候には、京地の外へ少しも難儀懸け申さざる由、野陣の儀は百性(姓)・町家旅宿致し候得は(そうらえば)、下々(しもじも)難儀致し候故、野陣致し候儀にて御不審の筋にてはこれ無し。且つ又先年来異人の儀に付き、それぞれ勅書類もこれ有り候処、去る年八月一条に付き、右御書反故(ほご)たるべきとの事に付き、弥(いよいよ)反故に候はば、この方にこれ有り候ても無益に付き返上致し候積り。その上にて異人と長藩一戦致すべき抔申し立て居り候由風聞
一、二十五日夕七ツ時分(午後4時半頃)舟にて参り、長州屋敷へ同藩弐百人計り入り込む由。

1条目は、長州藩から郡山藩へ差し出した書状についてです。郡山藩は、大和国添下郡郡山(奈良県大和郡山市)を拠点とする藩で、郡山の地は、京都と大坂に近く、古代より軍事的・政治的に重要な拠点とされた土地でした。江戸時代にも水野家、奥平松平家、本多家など、家門や譜代の名門大名が居城としています。当時は、5代将軍徳川綱寄りの側用人として大名に取り立てられた柳沢吉保から数えて7代目の保伸(やすのぶ)が郡山15万石の藩主であった。詳しいことはわかりませんが、調べた限りでは長州藩毛利家と郡山藩柳沢家には婚姻などの姻戚関係はないようです。やはり枢要地に位置する藩だからでしょうか。

書状の内容は昨年の8月から早1か年が経つが、いまだに攘夷の御沙汰もなく、この他に山城国淀(京都市伏見区)の因幡長門守(正邦)が京都所司代の時代(文久3年6月11日~元治元年4月11日)に申し立てたけれど返答はない。ひょっとして誰にもわからないというのならば一橋(慶喜)殿の元へ申し立て、それでもわからないというのならば関白殿まで申し立てるつもりだというのです。去年の8月というのは、八月十八日の政変をさすのでしょう。

2条目は長州藩の回答です。すなわち長州藩全体は至って穏やかで、山崎の離宮八幡宮にしばらく参詣したいのだと郡山藩には回答し、舟で山崎までの運送人足賃などは大目に払っているので、土地の者たちの評判もよいと言っています。

3条目は、一橋慶喜からの使者についてです。昨日から一橋殿よりの使者が山崎の屯所に再三来ているのだが、長州藩側が言うには、京地の外に少しでも難儀をかけないようにするためで、野陣を敷いているのは、百姓や町屋を宿所にすれば、下々の者たちが難儀するために野陣しているのであって、御不審を受けるようなことはありません。また、先年から異国人に関してはそれぞれ天皇の勅書などもあるのに、去年8月の件についてこれらの御書を反古にするということで、ついに反古にすると言うのならば、この地のこのまま居ても無益なので、国元に帰るつもりです。その上で異人どもと長州藩とで一戦を交えますなどと申し立てているということを風聞で聞いているというのです。

前回は、家老の福原越後を総大将とする400名余の藩兵たちは、関東に下るつもりだといい、ここではまず郡山藩に書状を出して山崎に在陣している訳を離宮八幡宮への参宮のためだといい、さらに一橋慶喜の使者に対しては、攘夷の勅書が反古にされている現状を訴え、このまま攘夷が結構されないなら帰国した上で外国と戦争におよぶと述べています。これもまた風聞です。

改めて言うまでもありませんが、文久3年に14代将軍家茂(いえもち)が上洛した際に、5月10日を攘夷の決行日とすることを孝明天皇に約束します。実際その日に長州藩は、下関を通るアメリカ商船ペンブローク号を攻撃し、23日にフランスの通報艦キャンシャン号、そして26日には通商の国であったはずのオランダの船、東洋艦隊所属のメデューサ号にも攻撃をしかけるのです。京都でも尊王攘夷に関する工作を進めていったところで、八月十八日の政変にいたります。さらに元治元年(1864)6月5日の池田屋事件によって緊張は一機に高まります。前回の史料が6月23日から24日にかけての史料で、こちらの史料も24日のものとみて間違いないようです。

最後、4条目は、25日の午後4時半頃に京都の長州藩屋敷に200人ばかりが集結したとあります。いろいろと情報が錯綜していますが、さらに緊張が高まっている様子をみることができるでしょう。

こちらは京都御所の建礼門から蛤御門を見通した写真です。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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