源頼朝と鵐窟

歴史コラム
源頼朝と鵐窟

たまには研究者として歴史の話をばちょっと。本日の大河ドラマは、石橋山の合戦で敗れた源頼朝が鵐窟に隠れ、安房(千葉県)に船で渡って再度の挙兵を誓うというところまででしたね。三谷幸喜さん脚本の「鎌倉殿の13人」は、私らからすれば言葉遣いをもう少し古くして、もっと重厚な作りにして欲しいと思ってしまいますが、その反面わかりやすくておもしろいのは確かですね。先週の愛之助さんが討たれるシーンなどはなかなかでした。。

さて、頼朝が隠れた窟は、鵐窟と書いて「しとどのいわや」と呼びます。追手が迫ったときに鵐(しとど)いう鳥が飛びだしてきたことからこの名前があるそうです。調べてみたら、鵐はホオジロ類の鳥だそうです。この鵐窟伝承は、現在の湯河原町と真鶴町に残っています。『吾妻鏡』によれば当時は湯河原から真鶴一帯は土肥鄕といわれていたようで、北条時政は「土肥岩浦」から、頼朝は「土肥真鶴」から安房に渡ったとあります。この辺は、「鎌倉殿の13人」でも『吾妻鏡』の記述をうまく活かしているようですね。

本日の鎌倉殿紀行では、湯河原町の鵐窟が紹介されていました。また最後に船が出立した場所として紹介されていたのは、真鶴町岩の海水浴場でしたね。「土肥岩浦」「土肥真鶴」と『吾妻鏡』には出てきますが、現在の真鶴町は、江戸時代には真鶴村と岩村の2か村からなっています。2か村しかなかったといった方がよいですかね(^^;)私は「真鶴町史」を担当していましたから、今回は真鶴町の鵐窟にまつわる話を紹介しましょう。

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こちらが真鶴町の港近くにある伝鵐窟跡です。湯河原町に比べると少々小さいです。これは2004年頃の写真ですが、源頼朝をはじめ、武将たちの幟が窟の周りにはためいています。頼朝の幟の向こうに見えるのが鵐窟です。久しぶりに『真鶴町史』資料編をめくってみて、江戸時代の鵐窟に関する伝承をみてみたら結構あっておもしろかったですね。自分でもこんな史料を選んでいたんだなと改めて思いました。

江戸時代の真鶴に残る鵐窟に関する古文書で最も古いのは、風外と蔭山という僧に当時の真鶴村名主の五味伊右衛門演貞(のぶさだ)が書いてもらった「鵐窟縁起」です。どちらも正保2年(1645)2月付の縁起です。この内、風外は曹洞宗の僧侶で、名を慧薫(えくん)といいます。永禄11年(1568)上野国碓氷峠付近(現在の群馬県安中市松井田)で生まれ、仏門に入って上野や下野の曹洞宗寺院で修行した後、元和4年(1618)頃に成田村(小田原市)成願寺の僧となります。その後成願寺を離れて穴ぐら住まいの乞食(こつじき)生活に入り、寛永5年(1628)頃に真鶴の断崖に庵を結んで移り住んだといわれています。禅僧としての博識もあり、禅画もよくした風外は、托鉢に対する布施の返礼として、求めに応じて多くの書や画を書き残しています。奇僧風外として結構、有名なお坊さんなんですよ。蔭山についてはよく分かっていませんが、乞食沙門とありますから、風外と同じような立場のお坊さんなのでしょう。

縁起の内容はどちらもだいたい同じです。治承4年(1180)8月23日の石橋山の合戦に敗れた頼朝、それから400年以上もの歳月が流れ、もはや陣跡も消えて、荒れるにまかされていた窟の現状を嘆いた五味伊右衛門は、窟内を修理・清掃して一体の石仏を安置します。この鵐窟のいわれと伊右衛門の功績を綴ったのが、風外と蔭山の「縁起」でした。言い換えれば、五味伊右衛門は、この鵐窟伝承を真鶴村のものとし、それを自らが継承するということを江戸時代のはじめに明らかにしようとしたのでした(『真鶴町史』資料編403~404頁)。

この五味家をめぐっては、さらに『伊豆名跡志 巻之七』におもしろい話が載っています(『真鶴町史』411~417頁)。この書物は、伊豆国内浦久連村(静岡県沼津市)の渡辺久助という人物から天保2年(1831)に五味家が借り受けて同4年に筆写したものと書かれています。いつの成立か分かりませんが、文中に石橋山の合戦から「星霜既ニ六百歳」という記述があるので1780年頃の安永~天明期(1772~1789)の成立と考えられます。ここにはもちろん「鵐ケ岩屋」という項目もあるのですが、「真鶴三名字」というのが実におもしろいのです。

これによれば、頼朝が鵐窟に隠れていたときに助けてくれた3人の浦人に名字を授けたというのです。お前たちには名字があるのかと尋ねた頼朝に対して、下賎の身なれば名字も伝わっていませんと答えると…。まず青木を切って窟を隠した新兵衛という名の浦人に「青木」という名字を授けます。次に伊右衛門という浦人が、赤飯を頼朝一行に振る舞うのですが、その赤飯が「甘露」でまさに「醍醐味」というのはこういうものだというので「醐味伊右衛門」と名乗れというのです。さらに丸盆に柏の葉を打ち替えてその上に赤飯を盛って来たその形が橘に似ていたというので、丸に橘をそなたの家紋とせよといったというのです。もうおわかりですね!これがすなわち「五味伊右衛門」の祖先だというのでした。

もうひとり、丹後と名乗る浦人がいて、一人残って窟を守ったので、今後は「守丹後」を名乗れと頼朝はいいます。ただし、この時に岡崎四郎義実が「守の一文字だけでは平人の守に聞こえるから、御の一文字をお与えくだされ」と願ったところから「御守丹後」となったというのです。これが「真鶴三名字」に出てくる話でした。

ともあれ、江戸時代にはすでに湯河原と真鶴に鵐窟伝承があったでしょうから、これらは鵐窟伝承を真鶴のものとすることと、名主五味家の祖先がその功のあった人物であるということを伝えようとするものであったことは確かでしょう。源氏の棟梁として幕府を開いた徳川家にとって、頼朝にまつわる伝承、そして家康がよく読んでいたといわれる『吾妻鏡』に関する伝承は、とくに重要視されたことは想像に難くありません。

さらに興味深いのが、明治2年(1869)に、岩村の役人惣代ならびに百姓惣代の伴右衛門と差添人の組頭の庄右衛門が新政府に提出したと思われる嘆願書です(真鶴町史』資料編212~214頁)。ここで岩村は、当村村高143石余り、家数128軒は、村高が少なくて、漁業稼ぎで生活を成り立たせている。これについては「六百九十年前の治承4年秋における頼朝公合戦の際に、当村の漁船で房州須之﨑までお渡りになったので、その功績によって海は『櫓かい』の及ぶだけ、山は牛馬の通れるだけ何の渡世であっても思うままにせよという『御墨付』をいただいた。さらに小田原古領主北条氏直公の御代に、この『御墨付』と引き替えに天正9年(1581)『虎之御朱印』をいただいた。先の御書付とは異なるが、それ以来290年この『虎之御朱印』を大切に保管している」という由緒を持ち出して、自村の漁業権を主張するのです。また、この前年、明治元年(1868)12月には、惣代の伴右衛門と組頭の庄右衛門に対して、全村人(戸主)が2人に任せる旨の頼み証文を作成してます(『真鶴町史』210~211頁)。

ここで岩村は、頼朝伝承を自村の漁業権の大元として主張するのですが、こうした主張は初めてのことです。ここでは頼朝が安房に渡ったという話が、村全体の由緒として語られていることに先の真鶴村との違いがあるといえるでしょう。それも新政府に対してです。そこがまたおもしろいのですが…。

これにはもう一つ大きな問題があります。岩村の石材業の問題です。今でも真鶴町から採れる石は小松石として高級な石として墓石などに使われています。小松石は堅くて丈夫なことが特徴で、江戸時代のはじめには真鶴から伊豆半島にかけて採れる石は、江戸城の石垣などに使われて、村々も活況を呈します。ところが、そうした需要がなくなる江戸時代中期以降は、神奈川県北西部の丹沢山系から採れる丹沢石、もしくは七沢石(厚木市)が相摸国から江戸を中心に関東地方で盛んに利用されるようになります。丹沢石(七沢石)は柔らかくて加工しやすいので、墓石や石仏などいろんな用途に使用されるようになるのです。今でも丹沢石(七沢石)は、剥がれたり欠けたりしているのでわかりやすいです。

ところが幕末になると、異国船対策として台場が築かれるようになりますから、また堅くて丈夫な真鶴石の需要が高まるのです。とくにペリーが来航した後の品川台場には多くの真鶴石が使われました。こちらは真鶴村の記念碑です。

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「品川台場礎石乃碑」とありますね。これがまた鵐窟の前にあるのです。ついでに真鶴には岬の先に小田原藩の台場が置かれて、今もその跡が残っています。

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「幕街の台場の遺跡」という碑がないとこれが何の跡かぜんぜんわかりませんけれど、ここに砲台がおかれていたのです。

で、岩村もまた、台場用の石の需要で活況を呈するようになるのですが、慶応3年(1867)12月から「本業であった「石渡世」が禁止とされたのでした。恐らく大政奉還の後、王政復古による新政府の成立によって止めさせられたものと思われます。だから岩村にとっては、漁業権の確保こそが死活文となっていたのですね。

ここで先の嘆願書にもどると頼朝は、海は櫓かいの及ぶだけとともに「山は牛馬の通れるだけ」といったという文言が意味を持ってきます。海だけではなく、山の権利つまり石材に対する権利もここでは頼朝から与えられたと暗にいっていることを示しているのでしょう。

1990年代にこうした「由緒」論がさかんになりましたが、頼朝伝承は、江戸時代を通じてもこうした形で真鶴に残り続けたのでした。由緒が事実かどうかという問題とは別に、こうして時代と社会の中で活かされ続けてきたということに「歴史」というもののおもしろさがあると思うのです。

ということで、本日は地域社会にまつわる頼朝伝承のあり方についてのお話でした。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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