Professor's Tweet.NET

「相州三浦郡の継立人馬役・水主役と日光社参人馬役」の論文を公開します。

「馬場研究室へようこそ」のコーナー「論文一覧」中の「相州三浦郡の継立役人馬役・水主役と日光社参人馬役」の論文PDFファイルを公開します。この論文は、2008年に『市史研究横須賀』第7号に掲載されたものです。横須賀市史の関係委員会および部局は、今年の3月で解散しましたので手に入りづらくなったかと思います。もう9年前の論文になりますが、せっかくなので、ネットでも検索して入手できるようにしました。PDFファイルは「馬場研究室へようこそ」の「論文一覧」にUpしますが、せっかくですから、ここでもUpしておきますね。

江戸時代の場合、東海道 中山道・日光街道・甲州街道・奥州街道を五街道といって、五街道には人と荷物を積み替えるための宿場が用意されています。東海道の場合は、100人の人足と100疋の馬を準備しておく必要があって、ここで人と馬を乗り替えることを宿継ぎといいます。この100人・100疋で足りなくなった場合は、近隣の村々から補充の人足と馬を徴発することになります。これを「助郷(すけごう)」といいます。助郷に従事する村々は不公平が起きないように「組合村」をつくっています。村々が連合して活動するわけです。

五街道の他にも当然のことながら道はあるわけで、一般的にこれを「脇往還」「脇街道」などといいます。五街道は道中奉行の管轄になり、脇往還は代官の管理となります。脇街道といっても、重要な街道には、宿場と同じように人と荷物の継ぎ立て業務のために「継立場(つぎたてば)」の村が指定されています。さらに、それらの継立場の中には、五街道の宿場と同じように、人馬が足りないときに「助郷」が設定されている場合もあります。

この論文は、鎌倉郡雪之下村と浦賀への往復に関する継ぎ立て業務に注目したものです。雪ノ下村は、鶴岡八幡宮が鎮座する村で、ここには武家や公家などの参詣がありますから、当然、継立場が設定されています。問題は浦賀の方で、伊豆下田から浦賀に奉行所が移転したのが享保5年(1720)のことです。そこで改めて継立場の設定が行なわれたと考えられます。しかもこの継立場にはいずれも助郷の村が設定されていて、いわゆる組合村=継ぎ立て組合が結成されていました。五街道の助郷組合に相当するものです。

手前味噌ですが、私は論文を書く場合、いくつかの視点からみることができるように書いていきます。この場合は、いわゆる交通史の問題ですが、とくに脇往還の継立場を明らかにするということに焦点をあてております。これを組合村として捉えることにより、「組合村論」もしくは「地域論」としても読んでもらいたいと思っています。また、浦賀近辺は、継立組合には編成されていませんが、そのかわり「水主(かこ)組合」に編成されています。つまりは浦賀で船を出して操作する役目ですね。これもまた、浦賀周りの地域性をよく表わしています。

そこに日光社参です。ここでは10代将軍家治が行なった安永5年(1776)の社参を取り上げています。日光社参は、将軍が下野国(栃木県)の日光東照宮に参詣する行事です。それと浦賀は関係ないように思われますが、将軍が移動するための人足と馬は関東全域から徴発されるのです。そこで、浦賀奉行所のような重要な役割を担っている地域はその免除を願い出たりします。その免除は、この継ぎ立てのための組合村が中心になって免除訴願の運動をするのですね。

そしてもう1点。「御上にも御慈悲はあるのだぞ」なんて時代劇ではよく出てくるセリフですが、現実にも実は根回しや裏の取り引きなどがあるもので、免除のために幕府の役人がアドバイスをしてくれちゃったりしています。それがまた秀逸で笑えます。

興味のある方はぜひご一読くださいませ。いわば「日光社参の真実」となりますでしょうか?

 

「相州三浦郡の継立役人馬役・水主役と日光社参人馬役」PDFファイルBABA_NIKKOUSYASAN

 

※三浦郡の人馬継立組合と水主組合図

 

 

 

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
Exit mobile version