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幕末維新の騒乱と東海道 Vol.04 横浜開港と遊歩場

安政5か国条約の条項は、国ごとに異なっているが、大まかな共通項目として、①相互に首都に公使を、開港場に領事を置くこと、②神奈川・長崎・箱館の3港を安政6年6月5日(1859年7月4日)付で開港し、引き続いて新潟(1860年1月1日)、兵庫(1863年1月1日)を順次開港すること、③江戸(1862年1月1日)と大坂(1863年1月1日)を開市し、商売を行なう間だけは外国人の逗留を認めること、④日本人と外国人との自由な商売を保証することなどがあげられる。ただし、④関税率を相互協定によって定める制度、⑤外国人の犯罪は自国の法律によって処罰する領事裁判権の制度、⑥片務的な最恵国待遇、いわゆる「関税自主権」「治外法権」など不平等条約の根幹をなす条項もそのまま盛り込まれた。

条約では当初、神奈川が開港場として指定されていた。神奈川は東海道の宿と港を兼ねる繁華の宿場港であった。東海道筋には宿場と港湾が同居する地点がいくつか設けられており、そのなかでも江戸にもっとも近い神奈川は幕府にとって重要な拠点のひとつであった。例えば大磯も宿場と港が一体となった場所であったが、漁業が主であり、廻船についてはせいぜい400石程度の船が海上で停泊し、艀船で積み荷を上げ下ろしする程度であった。これにたいして神奈川湊は千石クラスの船が出入りする、浦賀湊(横須賀市)につぐ港町で、宿場の規模もそれだけ大きかった。

そもそも神奈川を開港場と指定したのは幕府であった。ハリスが条約の草案で江戸と品川を開港場として提案してきたからである。しかしながら幕府は、開港が現実のものとなると、そうした神奈川での開港に難色を示すようになり、日米和親条約の調印にも使われた対岸の横浜村に築港することを提案する。ハリスはこれに頑強に反対し、イギリス総領事のオールコックもハリスの支持にまわるなど結局各国との交渉がまとまらないまま、なし崩し的に横浜村が開港場となったのであった。開港当初の史料で神奈川と横浜が混在するのはそうした事情による。開港日は安政6年6月2日(1859年7月1日)であったが、5か国のうちロシアを除く4か国の領事館は神奈川宿の各寺に設置されたままであった。

横浜を開港すると早速幕府は、同月付で村々にたいして「横浜奉行所」(のち神奈川奉行所)名の触達(ふだつ)を出し、承認のために村ごとに請書(うけしょ)をとった(『大磯町史』2近世No.220)。

神奈川御開港に相成り、ロシア・フランス・イギリス・アメリカへ当六月より横浜において御国商人共と交易御免に相成り、外国の役人ならびに商人等同所へ住居いたし候(そうろう)に付いては、同所より江戸の方は六郷川を限り、そのほかは十里境のうちを遊歩お差し許し相成り徘徊いたし候に付き、御取締り向き改めて御厳重仰せ出され候趣仰せ渡され畏(かしこ)み奉(たてまつ)り候。外国へも相伝わり候事に付き、末々の者心得違いの儀これあり候ては御外聞に相成り候間、厚く申し合わせ、相互に心付け、聊(いささか)も心得違い不取り締まりの儀これなきよう仕(つかまつ)るべく候事。

この序文が、日米修好通商条約の条文に沿ったものであることは明らかである。つまりは、神奈川の開港―横浜での交易許可を受けて、横浜周辺に外国人の遊歩地域を設定したこと、遊歩地域での取り締まりを厳重にすること、少しでも心得違いや不取り締まりなことがあれば、外国へも伝わって外聞にかかわるので、相互に慎むようにすることが申し渡されている。開港―交易―外国人遊歩が焦眉の課題であったことが見て取れる。以下、①外国人遊歩の際の休泊についての規定、②外国人が土地の者を雇用する際の注意、③門構えのある人家へ外国人をむやみに立ち入らせないこと、④外国人との商売は見通しのよい店先で行なうこと、⑤商用等で来た外国船の運上会所への届け出、⑥御制禁の品以外の商品を外国人に売ることの許可、⑦外国人の難題に対する対処、⑧外国人金銀貨幣の通用方、⑧外国人から贈物を受け取ることの禁止、⑨キリシタン宗門の厳禁、⑨外国人の宗旨に関する論争の禁止、⑩アヘン売買の禁止、⑪抜荷(密貿易)の禁止といった、交易とそれにともなう外国人との交渉から、日常的な交際について細々とした規定が申し渡された。

そこで外国人遊歩場の範囲であるが、請書では江戸方面は六郷川(多摩川)まで、それ以外は10里(約40キロメートル)を境界とすることになっていた。図1はこれを図示したもので、太線内が遊歩場にあたる。図に明らかなように、西方の10里はちょうど酒匂川を境とし、川筋をのぼって金手村(大井町)と金井島村(開成町)の間、および松田惣領(松田町)と松田庶子(同)の間を結んで足柄上郡を横切り、津久井県内の青野原村(津久井町)と鳥屋(とや)村(同)、若柳村(相模湖町)と3ケ木(みかげ)村(津久井町)の間を通って、八王子(八王子市)を結ぶ線、ここまでが境界であった。また三浦半島方面は10里内であれば半島全体がその範囲にはいるはずであるが、実際は浦賀を避けて、その手前の大津村(横須賀市)と公郷(くごう)村(同)の間から、長井村(同)と佐島村(同)の間を結ぶ線が境界となっていたようである。

※タウンゼント・ハリス肖像画

 

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投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
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