幕末維新の騒乱と東海道 Vol.08 還御と再上洛の狭間で

歴史コラム
幕末維新の騒乱と東海道 Vol.08 還御と再上洛の狭間で

上洛をはたした家茂を待っていたのは、朝廷の攘夷の意志の堅さと、京都における尊王攘夷運動のすさまじさという現実であった。頑迷な排外主義者であった孝明天皇は、上洛中の家茂に対して、皇室との関係の深い賀茂神社における攘夷祈願への同行を命じた。蒙古襲来の故事にならったのである。上洛から1週間後、文久3年(1863)3月11日のことで、殿上人や門跡などを総動員し、将軍家茂以下、幕閣、諸藩の藩主、その藩兵など総勢2000人以上におよぶ大行幸であった。ところが家茂は、一ノ鳥居まで来たところで体調不良を訴え、そのまま二条城へと引き返してしまう。そこで孝明天皇は、その1か月後、4月11日に今度は石清水八幡宮への行幸を決行するが、このときは病気を理由に辞退し、かわって将軍後見職の一橋慶喜が供奉した。そして慶喜もまた、行幸の途中で腹痛を理由に引き返している。

いずれにしても、この2度にわたる孝明天皇の攘夷祈願は、尊王攘夷派の動きを活気づかせることになった。なかなか家茂の江戸東帰も許されないなか、攘夷期日を執拗に迫る朝廷に対して幕府は、4月21日、やむなく「本年5月1日」を攘夷の決行日とすると奉答したのであった。尊王攘夷を強硬に主張していた長州藩は、これに応じて5月1日に下関の豊浦沖でアメリカの商船に向けて砲撃し、続いて23日にはフランスの軍艦、26日にはオランダの軍艦に向けて砲撃を加えた。これに対してアメリカは、6月1日に軍艦ワイオミング号を派遣して長州藩の艦船と砲台を撃破し、5日には今度はフランスの軍艦2隻が下関海峡に進入して砲台を撃破、占領したのであった。そのいっぽう、江戸では老中小笠原長行が独断で、生麦事件の賠償金10万ポンドをイギリスに対して支払うことを約束していた。すべては家茂が京都に滞在している最中におきたできごとである。

かくして朝廷との交渉どころか、尊王攘夷派の包囲網に翻弄される形となった家茂であったが、ようやくにして江戸東帰の勅許を得ると、6月9日には京都を出立して大坂に向かい、13日にいたって大坂から軍艦翔鶴丸(しょうかくまる)で海路、江戸に向けて出帆した。江戸城に到着したのは、同16日のことであった。もちろん、その他の一行は陸路東海道を東下していった。

この還御に際して幕府は、東海道筋にあたる宿村の長寿者に対して、褒美銀を下賜するとした(『大磯町史』2近世No.228)。長寿者は90歳以上の者で、場所を決めて一行の前に差し出し、他の者と紛れないように、赤織りでも白紙でもあり合わせの紙で小織りのようにして「長寿之者共」と認めておくようにという。上洛の際は直々に将軍が通っていったが、還御の際にはいない。そのギャップのなかで、将軍の「慈悲」「仁恵」を演出するデモンストレーションであり、常套手段であった。また、上洛の際には休憩場所となった駅村で商売を禁じたところ、御供の面々が食料に差し支えて難渋したので、還御の際には平常どおり商売をしてよいとの沙汰も出された(『同前書』)。

ようやく江戸に帰ったのもつかの間、この7か月後、家茂は再び上洛の途につくことになる。その間にはまた、時代を大きく動かす事件が続発していた。まず、7月2日には生麦事件における犯人の引き渡しと賠償を薩摩藩が拒否したことから、鹿児島湾に侵入したイギリスの艦隊7隻と戦闘になった。薩英戦争である。この戦闘で薩摩藩側は、同藩が誇る洋式工場の集成館や鋳銭所を全焼し、城下町の1割を焼失した。だが、イギリス側の被害も大きく、2日間におよぶ戦闘で、薩摩藩側の戦死者5名、負傷者十数名に対して、戦死者が13名、負傷者は50名にのぼっていた。ただし、この戦闘以後、薩摩藩とイギリスは急速に接近していくことになる。

薩英戦争の報は幕府を震撼させた。生麦事件の事後処理をめぐって、横浜周辺にイギリスの艦隊が集結していたことは先に述べたとおりであるが、江戸近海での戦闘がいよいよ現実味を帯びてきたのである。幕府はこの6月頃より関東取締出役から御勘定へと栄進した中山誠一郎に、各地域担当の関東取締出役1~2名をつけて、寄場組合の親村を中心に関東の村々を廻村し、取締りの強化を触れて廻るという政策を実施していた。曽屋村寄場組合には7月に中山と関東取締出役の安原●(寿+下心)作および杉本麟次郎の2名が廻村したが、その際に出された請書の第2条目には以下の内容が書かれていた(『寒川町史』3史料編近世(3)。書き下し文に改めてみよう。

近来異国船渡来につき、この後内海において兵端を開き申すべきやも計りがたく、その砌(みぎ)り御府内そのほか海辺動揺いたし候節、無宿・無頼の者どもその機に乗じ悪党ども立ち廻り、乱妨狼藉(らんぼうろうぜき)に及ぶまじくも計りがたく、怪しき者見掛け候わば、鐘・太鼓等打ち鳴らし人寄せいたし、竹鎗・手鎗・六尺棒そのほか手に叶い候品持ち寄り搦(から)め押さえ置き、最寄り御廻村先へ御注進申し上げ、万一手に余り候者は、たとえ鉄炮を以って打ち殺し候ても苦しからず、その節領主・地頭へ届け等にも及ばず、直ちに御出役のうえ、村方の難渋に相成らず候様御取り計らい下され候趣仰せ渡され候事

「内海」はいわゆる江戸湾のことである。そもそも「江戸湾」という名称自体が、ペリーが行なった海浜調査の際にEdo Bayと表現したのを直訳したもので、当時、一般的には江戸の内海と呼ばれていた。そしてこの内海で「兵端を開」くという表現がすなわち、イギリス艦隊との開戦の危機を示している。このときに幕府がもっとも懸念したことのひとつが、その機に乗じて無宿・無頼の者や悪党どもが「乱妨狼籍」を働くことであった。それは将軍家茂の上洛時に出された廻状と同様の趣旨である。ただし、この条文で決定的に異なるのは、その処置に対して、竹槍や手槍、六尺棒などの武器になるようなものを携行することを認めていることと、万が一手に余るようであれば、たとえ鉄砲をもって撃ち殺してもかまわないと述べていることである。関東取締出役からの触書や廻状には明確なのだが、犯罪人などを村人たちが追捕するときは捕縛することが大前提であって、もし手に余るようなことがあっても手出しはせず、その者らの逃亡先まで後をつけてその場所を報告せよというのが基本的な方針であった。緊急の事態であるとはいえ、ここでは被支配者身分の民衆に対して殺害権を容認しているのである。

江戸時代の社会は、兵と農を分離し、兵―武士がいっさいの武力行使を独占することで成り立っていた。したがってこの措置は、幕府自らが自らの存立基盤である兵農分離という大前提を突き崩そうとするものであった。しかしながらこの条文は、御勘定の中山と関東取締出役が廻村した先の説諭で必ず加えられており、条文の趣旨もまた以後くりかえし出されることとなる。先の浪士組といい、またこれ以降急速に組織化される農兵、諸隊、幕府歩兵隊など、民衆の武装化は避けることができない要件となっていく。社会は根底から変わろうとしていた。

そして8月、京都ではまた時代を揺るがす大事件が勃発した。孝明天皇の大和行幸、攘夷親征の詔勅発布などを画策していた長州藩と激派の浪士からなる尊王攘夷勢力に危機感を抱いた中川宮(朝彦親王)前関白近衛忠煕(このえただひろ)ら公武合体を推進しようとする朝廷や公家勢力が、薩摩・会津の両藩と組んで、長州藩と急進派の公家を京都から追放したのである。8月18日の未明に突如決行されたことから、「文久三年八月十八日の政変」と呼ばれている事件である。これによって長州藩は京都からの撤退を余儀なくされ、三条実美(さねとみ)ら7人の尊攘派公卿が長州藩に落ち逃れることになった(七卿落ち)。そしてこのクーデターの直後、将軍後見職一橋慶喜・京都守護職松平容保(会津藩主)に加えて、島津久光(薩摩藩主父)・松平慶永(福井藩主)・伊達宗城(宇和島藩主)・山内豊信(土佐藩主)が朝廷より朝議参予に任じられ、参与会議を開いて京都で国政を執ることとなる。公武合体派の支配下に置かれた京都は、一時的にではあるが政治的な安定をみることとなったのだが、家茂が上洛した目的は、この参与会議を支援し、公武合体の体制を現実のものとするためであった。

※京都御所紫宸殿

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
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