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幕末維新の騒乱と東海道Vol.13 東征軍の東海道進攻と江戸開城

話を第二次長州戦争に戻そう。慶応元年(1865)閏5月より大坂城に在陣していた家茂は、9月になると再び上京して参内し、21日に征長の勅許を得ることに成功する。征長総督には紀州藩主徳川茂承(もちなる)を任命。32藩に出兵の命令が下された。いっぽう長州藩に対しては、10万石の減封に、藩主毛利敬親(ただちか)の蟄居隠居、嫡子定広の永蟄居を骨子とする処分が下されたが、これらが拒絶されると、翌慶応2年(1866)6月5日をもって総攻撃を行なうことが公示された。そして同月7日、周防大島口(山口県)での戦闘を手始めに、14日芸州口(広島県)、16日石州口(島根県)、17日小倉口(福岡県北九州市)の、いわゆる四境で幕府軍と長州軍の全面対決となった。長州藩側で四境(しきょう)戦争と呼ばれるゆえんである。ただ、すでに同年正月には、薩摩藩と長州藩の間で坂本龍馬、中岡慎太郎を仲介として同盟が結ばれており(薩長同盟)、4月の段階で薩摩藩は出兵を拒否していた。また、朝廷や諸藩の間でも征長に反対の空気が強かった。いっぽう長州軍は、大村益次郎を中心とした軍制の改革で西洋式の軍隊に生まれ変わっており、奇兵隊をはじめとする諸隊の活躍とあいまって、各地でことごとく幕府軍を打ち破っていった。

そうしたなか、7月20日に大坂城にあった将軍家茂が病没した。弱冠21歳であった。家茂の急死は、停戦への流れを一挙に加速させていくこととなる。家茂の死と一橋慶喜の15代将軍襲封が公表されたのが、8月21日のことで、その翌日に征長軍解散の勅を得、9月2日に安芸宮島(広島県廿日市市)で休戦の協定が結ばれた。そして12月25日に孝明天皇が急死すると、解兵の沙汰書を得て公布した。幕府の全面敗北であった。

長州征伐の失敗によって幕府の権威失墜は決定的となり、慶応3年(1867)にはいると、その背後で薩長を中心とした討幕の準備が着々と進められていた。こうした局面を打開するために慶喜は、土佐藩からの建議を受けて、公議政体論の立場から大政の奉還を上表する。慶応3年(1867)10月14日のことで、翌日には朝廷もこれを認めた。公議政体論は、雄藩大名などの有力者を集めた会議によって政治を行なおうとするもので、幕末における政権構想のひとつである。慶喜が政権の返上を朝廷に申し出たのも、「大君(たいくん)」として、その頂点にたつというもくろみがあったからである。大政奉還の当日、薩長側は討幕の密勅を得ており、まさに起死回生の一手であった。機先を制せられた形となった討幕派は、12月9日、王政復古を宣言する。天皇親政の形式をとることで新政府を成立させ、新たな国家構想を提示してみせたのである。そしてこの日の夜に開催された小御所会議では、慶喜の辞官納地が決定する。将軍職を辞任して、すべての幕領を天皇に返上せよとの命令である。慶喜はこれを受諾しないままに、体勢を立て直すべく大坂に退いた。旧幕府側と新政府側とのにらみ合いは、一触即発の危機をはらみながら推移していた。

慶応4年(1868)は年明け早々の1月3日、薩摩討伐を名目に入京をめざして軍を進めた幕兵に会津・桑名藩兵らを加えた旧幕府軍1万5,000人と、薩長を中心とする新政府軍4,500人が京都郊外の鳥羽・伏見の街道で激突した。戊辰戦争の幕開けを告げる鳥羽伏見の戦いである。数では3倍以上にもなる旧幕府軍であったが、装備と士気の差はいかんともしがたく、1日で退却を余儀なくされると、6日には戦闘が終了し、慶喜はそのまま大坂を脱出して海路江戸に向かった。ここにきて新政府内部でも討幕派が完全に主導権を握り、翌日の7日には慶喜追討の勅命が下された。これによって新政府軍は正式に官軍となったのである。そして2月3日に天皇親征の詔が発布されると、9日には総裁有栖川宮熾仁親王を東征大総督とする東征軍が組織された。慶喜は同月12日に江戸城西丸を出て、上野寛永寺で蟄居し、恭順の意志を示したが、東征軍は15日に東海・東山・北陸の3道にわかれて進軍を開始した。これまで西へ西へと向いていたベクトルが逆流して、東へ向かう大きなうねりとなった。東海道の宿村々は、今度はこの東征軍の対応に追われることになったのである。

大磯宿では、問屋の市右衛門が、東征軍の派兵にともなう勅使の江戸下向と、これを警衛する薩摩藩・長州藩・尾張藩・紀州藩などの通行に関する心得の申し渡しを2月19日付で行なったことが確認できる(『大磯町史』2近世 No.238)。先鋒の大名方はこの日、すでに箱根の山を越えて箱根宿に逗留しており、近日中には大磯宿へ通行となるので、とくに役人馬を勤める者たちに心得違のないようにと厳重に戒めている。また、これに対する生沢村(神奈川県大磯町)の請書ではさらに、夫人足には強壮の者を差し出すこと、休泊の際の兵粮米として、高100石について米5俵を用意することが命じられた。軍隊の遠征なのであるから、ここでは兵粮米―兵食の調達が大きな問題となっているであり、宿場町は、そのための前線基地でもあった。この2月の末から閏4月を挟んで6月頃までの実質5か月の間、沿道の村々は人馬役をはじめとする東征軍の御用に追いまわされることになるのである。

それでは、東征軍は、具体的にどういった形で人馬の調達を行なったのであろうか。結果からいえば、旧幕府時代の組織を利用し、従来からの定助郷・加助郷に加えて、当分助郷や増助郷を徴発することでその用にあてている。大磯宿では4月に大総督府会計方から小田原役所を通じて、相模国愛甲郡10か村、同高座郡4か村、同大住郡2か村、同津久井県6か村、武蔵国男衾郡28か村、同比企郡21か村、同高麗郡10か村、そして秩父郡の全村に当分助郷が命じられた(『大磯町史』2近世 No.62)。慶応2年次の当分助郷に比べると、相模国内では三浦郡の村々が免除されるいっぽうで、愛甲郡から津久井県までその範囲が拡大している。現在の厚木市・愛川町から相模原市津久井にいたる地域である。また武蔵国では、男衾・比企・高麗郡に割り当てられた村の数が増えるとともに、新たに秩父郡(埼玉県)の全域が当分助郷に指定されたのであった。この秩父郡の村々のうち、上・下小鹿野村に品沢村など、現在の埼玉県小鹿野町から秩父市にいたる12か村は、材木伐り出しの不況と不作による困窮を理由に、当分助郷の免除を願い出ている(『同前書』)。この件に関しては、大磯宿からも嘆願書を提出することを約しているが、遠方の村々への助郷指定が、宿場側にとっても負担となっていることを暗示しているといえよう。そして同12日には、本陣の小島才三郎に対して、有栖川宮熾仁親王の宿泊本陣とすることが命じられた(『大磯町史』2 近世No.240)。

このほかにもたとえば藤沢宿(神奈川県藤沢市)では、定助郷はもとより加助郷にいたるまで、免除高にかかわらず藤沢宿に付属してきた分はすべて村ごとに人別帳を確認して、15歳から50歳までの男子の年齢・名前と人足・馬などをもれなく書き出すように命じられた。これを受けて高座郡32か村は、3月3日付で請書を提出している(『藤間柳庵「太平年表録」』№112)。ただし、藤沢宿の場合、この差配を行なったのは武蔵国金沢藩(横浜市金沢区)で、藩主の米倉氏が「御親征御用官軍人馬御賄」に任じられていた。

こうして人馬役をはじめとする街道の準備が進められていく間も、時代は大きく動いていた。大総督府は、3月6日に江戸城への総攻撃を下命したが、同13日・14日における大総督府下参謀西郷隆盛と、陸軍総裁勝海舟の会談によって江戸城の無血開城が決定した。もっとも、この会談は二人だけで行なわれたものではなく、幕府側からは山岡鉄太郎や大久保一翁、東征軍では村田新八・桐野利秋らが出席していたものと思われる。4月9日には上野寛永寺に蟄居していた慶喜が水戸に退去し、閏4月19日付で田安亀之助に徳川宗家の相続が認められた。後の徳川家達(いえさと)である。亀之助は5月24日付で駿河国府中城主(静岡県静岡市)となり、領地として70万石が与えられることになった。こうしたなか、東征軍に対する小田原藩の動向が、周辺地域を新たな混乱に巻き込むことになっていくのである。

※勝海舟

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投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
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