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幕末維新の騒乱と東海道Vol.19(終) 明治天皇の東幸 大磯宿に泊まる

大磯宿は、東海道8番目の宿場町で、相模国淘綾郡に属していた。宿高は「元禄郷帳」553石余、「天保郷帳」597石余であった。隣村の東小磯村加宿(宿場町に付属する村)となっていて、宿内は南本町、北本町、茶屋町、南台町、神明町、山王町、北下町、南下町の8か町からなっていた。南北両下町は漁師町でもあった。東隣の宿場町平塚宿とは距離が短い反面、大磯宿から西の小田原宿までは4里(約16Km)と東海道で2番目の長さ、また、平塚宿から藤沢宿まも3里(約12Km)でこれは4番目の長さであったことから、最合(もあい)といって、共同で伝馬役を務めることがあった。こうしたこともあって、将軍の上洛や朝鮮通信使の来朝などの大通行の際にも大磯宿は宿所として使われることが多かった。明治天皇の東幸の際もまた、宿所となっている。

明治天皇が京都の御所を鳳輿(ほうよ)したのは明治元年(1868)9月21日のことであった。大磯宿に到着したのが10月9日のことで、将軍家茂や有栖川宮のときと同様、本陣の小島才三郎家が宿泊所となった。通輦(つうれん)にあたっては、沿道の辻固め警衛には軍隊や足軽が配置されるという厳戒態勢であった。大磯宿では京方の警衛担当者が妙昌寺を、東京方が楊谷寺(ようこくじ)を宿舎とした。ただし、厳戒態勢であったとしても、沿道筋の近在や近郷から拝礼のために出てくることは勝手次第とされた。その際、雨露を凌ぐために仮屋を建ててもかまわないともいっている。それどころか、道筋の宿駅の農商どもののなかには通輦前から職業を休む者もいると聞いているが、それはけしからんことで、よく片付けておくことは必要であるが、職業を休むことはないようにと申し渡している。今回の行幸は、そもそも「安撫御巡幸(あんぶごじゅんこう)」、すなわち国を治める者として、人民が安心して生活できることを願って巡幸しているのだから、下民の情状を詳しく知りたい。だから、農商ともいずれも平常のとおり職業を勤めるようにしてほしいし、それを「御巡覧」するのが天皇の意志なのだという。また、当春以来、関東の人民兵乱のために艱難(かんなん)におよんでいたことで、天皇は深く宸襟(しんきん)を悩ませられていた。だからこそ御親臨、つまり自ら民情をみた上で、普(あまね)く御安撫遊ばされたいと思っておられる、とも述べている。たしかに東幸そのものが一大デモンストレーションであった。

その大磯宿でのことである。天皇は、午後に海岸に出て、供奉した諸藩の兵隊が鴉の群れを鉄砲で試射するようすをご覧になった。続いて漁夫たちが底引き網をするようすをこれまた叡覧(えいらん)されたのだが、この時に、漁夫の一人が採った魚を桶に入れて、裸のままで御座所に運んできたという。その後、漁夫たちにはお菓子が下されたという。
東幸の際に天皇が民と交わることはそう多くなかったようで、熱田神宮を参拝した後、浜新海松原で、農民が収穫するようすを叡覧されたことなどがわかっている。この時は、岩倉具視が農民に命じて稲穂を天覧に供して、またお菓子を下賜されたという。稲の収穫に、漁獲のようすと、いずれも事前に企図されたものであったことは間違いはないであろう。

これを将軍徳川家茂の上洛時と進発時のようすと比べてみると興味深い。文久3年(1863)の上洛中の家茂は、大磯宿に着くと、歩いて北神明町から海側の下町へ抜けて大磯の浜を見物している。その際に、その家茂を一目拝もうと宿民が大挙して押しかけたという。上洛が通告された場合は、一般民衆が将軍を拝むは禁止されていたが、直前になって許されたのである。ただし、その場では誰一人として咳払い一つする者はなく、皆しかと頭を垂れていたため、実際に家茂の顔を拝んだ者はいなかったというまた、御供の面々も皆柔和で、これを制する者も「荒言」をいう者もなかったと述べている(『梅沢御本陣』)。また、この時、浜に打ち寄せられた海草を見た家茂が、その名前を尋ねたところ、案内した本陣が「かぢめ」という名前であると申し上げた。すると家茂は、これを「勝目」と読み替え、「吉相之名」であるということで江戸城へ送るようにと申し付けたという(茅ヶ崎市史史料集第五集『藤間柳庵「太平年表録」』№77)。

慶応元年(1865)に長州藩征討のために進発した家茂は、大磯宿と小田原宿の「間の宿(あいのしゅく)」である梅沢(神奈川県二宮町)の茶屋本陣松屋で休息をとった。松屋では、このようにして休憩する大名や幕府の役人、公家などに献上品を差し上げ、休息料とあわせて心付けの礼金を受け取る仕来りとなっていた。ここで松屋の主人作右衛門が献上品として用意したのが、白木の三宝(三方)にそれぞれ鰺と鮎を載せたもの一台ずつと、別におはぎを載せた三宝が一台であった。おはぎを献上するにあたって作右衛門は、「この度の御進発は、長州萩への御進発であり、これにより早速『萩』を公方様がお召し上がりになることと存じます。つきましてはそのために『おはぎ』を献上つかまつり、『縁喜』(縁起)祝いの言上としたい」と存じますと述べている。長州藩の居城である萩になぞらえて、おはぎを召し上がることは萩を食らうことに通じて縁起がいいというのである。なかなかの演出である。思惑通り、将軍家茂はもとより、老中・若年寄をはじめとする供奉の面々もたいそう喜んだという。さらに家茂は、老中や若年寄などにも食べさせたいとしておはぎの追加を命じたが、急なことであずきが間に合わない。その旨を申し上げると、あずきがなくともよいというので、白飯をおはぎに見立てて差し上げた。その時に作右衛門は「はぎの白(萩の城)」を召し上がることで、これまた「縁喜」がよいことですと言上し、さらに家茂らを喜ばせている(『梅沢御本陣』)。京では当時、長州藩びいきで「おはぎ」が流行ったというから、対象的なエピソードで興味深い。

これらのエピソードにみえる将軍家茂は、なるべくフレンドリー民衆と接しようとする姿勢がみえるが、あくまでも将軍は将軍であった。これらに比べると、裸で漁夫が桶に入れた魚を平気で天皇のもとにもっていったというエピソードは、この段階ではまだ「天皇」というものの存在を民衆の方が熟知していないようである。天皇の権威化の進む明治に入ってからでは考えられない光景であろう。

ただし、このエピソードには続きがあって、天皇が宿泊したという事実とともに昭和3年(1928)になって「木標」が立てられることになった。昭和3年は、明治維新から60年となった年で、昭和天皇の即位とあわせて、これらを記念して11月3日を「明治節とする法案が、この前年に成立していた。これを記念しての建碑であった。その後、これらの木標は、石碑に変えられて現在にいたっている。天皇が宿泊した旧本陣の小島家の前には「明治大帝御東幸行在所記念」の石碑が、内侍所と鳳輦が安置された神明社には「明治元年十月九日御東幸之途次 内侍所雄羽車奉安之所」の碑が、そして北下町南浜岳には「明治天皇観漁紀念碑」今も静かに佇んでいる。行在所は、天皇が仮の住まいとした場所、転じて宿泊した場所、内侍所は(ないしどころ)、内裏(だいり)内の場所の一つで、内侍司女官の詰所を言い、この場合は、こうした御供の人々が宿泊した場所をさしている。

明治天皇は、10月13日、無事に東京に到着して江戸城にはいると、これを東京城と改めて皇居とした。ただし、天皇は東京城に2か月滞在しただけで、12月にはいったん京都に戻っている。女御(にょうご)の一条美子を皇后として迎えるためである。なお、このときの還幸では、戸塚宿・藤沢宿・平塚宿・大磯宿の4か宿が合宿で継立て業務を行なったことが確認できる(『大磯町史』2 近世史料No.247)。天皇の再東幸は、翌明治2年(1869)3月のことで、このときに政府の機関も東京に移っている。こうして東京が正式に首都となったのである。ただし、明治天皇は、正式に遷都の詔(みことのり)を発したわけではない。後に「奠都(てんと)」という語が使用されたりもするが、いずれにしてもなし崩し的な遷都であった。本格的な「東京時代」の幕開けである。

※この歴史コラムを読んでいただいた方はおわかりかと思いますが、「幕末維新の騒乱と東海道」は、相模国淘綾郡大磯宿を中心に据えて、『大磯町史』6通史編近世と7通史編近現代をあわせてまとめたものです。この回で連載は終わりとします。ありがとうございました。次回の連載も乞うご期待(^^)/

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投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
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