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立花宗茂と花宗堰・花宗川の風景

立花宗茂という戦国武将をご存じでしょうか?福岡県内では、筑後国柳川藩の初代藩主として知られています。豊後国(大分県)の戦国大名大友家の重臣高橋紹運(じょううん)の子で、天正9年(1581)に筑前立花城の大友家重臣戸次(べっき)道雪の養子となりって立花の名跡を継ぎます。この宗茂、とにかく勇猛果敢な人物として知られ、天正15年(1587)、豊臣秀吉の島津攻めでは秀吉方につき、その功績によって南筑後を拝領し、柳川に入城します。秀吉らをして、「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」「九州随一、西国随一の猛将」「比類なき武芸の達人」などとと称されていました。秀吉の信任厚く、とくに文禄・慶長の役での活躍はめざましかったのですが、関ケ原の戦では西軍についたために改易になってしまいます。ただ、徳川家康もその人物を高く評価していて、慶長3年(1598)に改めて奥州棚倉を拝領し、元和6年(1620)に再び柳川で10万9,000石を拝領し、准国主の家格となります。関ケ原の戦後に改易され、大名に復帰したのは宗茂だけです。

さて、天正15年に柳川を拝領した宗茂は、南筑後を開発するための農業用水として、今の八女市の津江(つのえ)という場所に堰を設けて、矢部川の水を分流する半人工運河の建設に着手したと言われています。この事業は、のちに筑後1国を拝領して柳川に居城した田中吉政によって引き継がれ、完成したそうです。花宗川は、大川市の花宗水門筑後川と合流しています。なお、吉政の嫡男忠政に嗣子がなかったため、元和6年に絶家となっています。その後に宗茂が柳川に再入城したわけです。

で、この宗茂が築いたという堰が花宗堰で、分流した用水川を花宗川と呼びます。何のことはない、立花宗茂の中の2文字を用いたのですね。実は、去年10月5日の「新聞記事キュレーション」で、西日本新聞の記事を紹介して、だから花宗川と言うんだ!知らなかった!と書きました。ずっと八女にすんでいて、川の存在は熟知していたのに、その由来もまったく知らなかったとは恥ずかしい限りです。しかも、この花宗堰、父の七回忌で会食した料亭矢部川城からみえた堰だったのです(^^;)二重の恥ですね。こちらが矢部川城からみた花宗堰です。

そしてこれが、矢部川から花宗川を分流した、まさにその地点です。

石堰と分流地点の景色がよくわかります。それにしても天気がよくて、青空と雲がすんだ花宗川の川面(かわも)にうつって、まさに鏡の如しです。もう少し分流地点に近づいてみましょう。

石でできた堰が立派です。意外と分流した花宗川も大きいですね。ここで私、河原から犬が迫ってくるのがみえまして、大急ぎで堤防まで逃げました。

分流地点から100m程でしょうか?赤い橋が架かっています。そのまま通称「赤橋」と地元では呼んでいて、この付近の子供たちはここから花宗川に飛び込んで遊びます。

最後に花宗川流域の風景を紹介しましょう。4枚組の写真です。

1枚目の写真にも2枚目の写真にも赤橋が写っていますね。矢部川から引き込まれた用水はここからまた2手に分かれます。3枚目と4枚目は花宗川本流の流れです。地域史を専門とする私にとって、我がふるさとの歴史の一面を確認する貴重な帰郷でした。ただ、正直なところ、この花宗堰の築堤と花宗川の開鑿、運河の建設などについては史料をみていないので、何とも言えません。天正15年といえば秀吉の天下統一事業のまっただ中ですし、どれだけ関与できたかは分かりません。むしろ、田中吉政・忠政父子の時代が重要かも知れません。しかしながら、こうして「花宗」として名前が残ったこと、それが立花宗茂の民政を示す話として代々受け継がれてきたことは、それ自体が重要であろうかと思います。いつ頃からそうした話が伝説化していったのか、それもまた、歴史を考える上で重要な課題です。古文書があれば、ぜひみてみたいですね。

それにしても立花宗茂という人物、やはり面白いな~。柳川ではもちろん招致活動をやっているようですが、できればNHK大河ドラマであつかって欲しい人物です。時は戦国時代とはいえ、これほど、波瀾万丈に飛んでいて、しかもしぶとく江戸時代まで生き残った武将はいないと思いますからね(^_^)

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投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
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