新選組:原点名簿見つかる 結成前の235人分、詳細に 東大に保存、妻子持ちや60代浪士も – 毎日新聞

新選組:原点名簿見つかる 結成前の235人分、詳細に 東大に保存、妻子持ちや60代浪士も – 毎日新聞

幕末の京都で新選組の前身となった浪士組235人分の出身地や年齢、家族構成が記された詳細な名簿が、東京大法学部に保存されていることが、歴史研究家への取材で分かった。妻子を持った40代以上の者も多く、中には60代の浪士も。動乱の時代に立身出世を夢見た新選組の原点が垣間見える。

↓ 詳しくはこちらで

https://mainichi.jp/articles/20170628/ddp/041/040/031000c

>こちらも一言言いたいですね。浪士組が結成されたのは、文久3年(1863)に14代将軍徳川家茂が、孝明天皇らの攘夷説得のために上洛した際に、出羽庄内藩郷士の清川八郎の献策を受けたことによるといわれています。この時、上洛に付き従った浪士は250人余。ただし、このうち200名は、生麦事件の後、イギリス艦隊が横浜沖に集結したことを理由として江戸に返されたとされています。このイギリス艦隊の横浜沖集結ですが、単なる口実ではなくて、当時は開戦の危機にあったことが関東の村々に残された史料からわかります。だから、江戸に戻ったこと自体はただの口実ではないのです。そこで京都に残った連中50人程度が新選組を結成していきます。で、関東に戻った浪士たち200人は、出羽庄内藩酒井忠篤「委任」となって「新徴組(しんちょうぐみ)」を名乗り、9月には「小普請方伊賀者次席」として召し抱えられます。新選組は会津藩「預り」なのに対して、新徴組は庄内藩の「委任」なのです。しかも新選組よりも早く「士分」に取り立てられているのですね。新徴組は、江戸周りでは悪さもずいぶんとしますが、江戸の警備はもちろんのこと、薩摩藩邸襲撃や相模荻野山中藩焼打ちなどに活躍します。この浪士組の名簿は、新選組ということ以上に、新徴組の構成をみていくのに有益な史料なのです。しかも浪士組の名簿についてはすでに宮地正人先生が『歴史の中の新選組』(岩波書店、2004年)で分析されていますが、それとはどう違うのでしょうかね。いずれにしても、もっと埋もれた歴史にこそ光を当てたいものです。

※国立公文書館内閣文庫 慶応3年「新徴組・大砲組之留」

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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