小田原藩の藩政改革-中興の租 大久保忠真-

お知らせ
小田原藩の藩政改革-中興の租 大久保忠真-

6月2日(日)に、箱根で「幕府遊撃隊 己巳一五〇年」行事で講演することは、このサイトでも何度か触れました(http://www.ihmlab.net/tweet/information/11101/)。実はその前日、1日の土曜日にも1本、講演が入っています。これは小田原史談会からの依頼で、小田原藩の藩政改革についてお話しします。小田原史談会は、小田原を中心とした郷土史研究の団体で、2019年度総会に合わせてお話しをさせていただきます。

相模国小田原藩については、このサイト何度も紹介しましたとおり、元禄16年(1703)の大地震と、宝永4年(1707)の富士山噴火による被害からの復興がもっとも大きな課題でした。それが一応、達成されるのが、享和期から天保期(1801~1837)にかけて、藩政の改革を行なった藩主大久保忠真でした。小田原藩では、後年、中興の租とされ、大坂城代から京都所司代、そして老中しかも老中筆頭と勝手掛老中兼任と幕閣のトップまで登り詰めますが、残念ながら、天保飢饉の最中、天保8年(1837)に死去してしまいます。これも何度か書いたのですが、江戸時代、最後に譲位した光格天皇と仁孝天皇の即位を取り仕切ったのが、京都所司代時代の忠真でした。

全国的にはあまり名前が知られているとは言えませんが、二宮尊徳(金次郎)を取立てた小田原藩主と言えば、だいたいわかっていただけるようです。ただ、尊徳による報徳仕法は、小田原藩の改革の一角を占めるに過ぎないんですけどね。一般社会では、尊徳に藩政を任せなかったのがいけないみたいな言われ方をされる場合がありますが、藩政、とくに藩財政の問題はそんなに単純な話ではありません。そんなに単純な話ではないですから、さて、どうやってお話をしようかと悩んでいる段階ではあります。

いずれにしても、1日が小田原での講演、2日が箱根での講演、そして3日の月曜日は3コマ授業とたぶん地獄の3日間。ま、たまたま重なっただけですけどね。

どちらも小田原藩の話ではありますが、時期も内容も大きく異なります。とにかくこれからしばらくはこの2つの講演の準備に没頭することになりそうです。ただ、忠真についてはずっと私自身の研究の核だったのですが、箱根戊辰戦争は、まずはただいま勉強中です!

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

コメントを残す

コメントを残す

«
»
  • LINEで送る