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文化2年の小田原分限帳并役職付

『吉岡由緒書』に続いて野の花出版社の次の刊行物が決まりました!おだわらの「たこ乃部屋」という古文書グループが翻刻した文化2年(1805)の「小田原分限帳并役職付」です。「分限帳」は「ぶげんちょう」もしくは「ぶんげんちょう」とも読みます。『岩波日本史辞典』によれは1番目の意味として「江戸時代に藩士の名前・禄高・役職・格式・住居などを記した帳簿。侍帳・家中帳・役帳・給所帳ともいい、前期には軍団編成を反映させた記載が多く、次第に検索の便から〈いろは〉順に並べた名簿的なものが増えた。」とあります。つまりは幕府や藩の名簿という訳です。

小田原藩の場合は、この分限帳に記載された藩の「役職」の順番を「順席」といって、それが同時に家格を示すものにもなります。これがややっこしいのは、本来、それぞれの「家」には基本となる役職があるのですが、それは実際の役職(昇進や降格)に応じて順席、つまりは藩の家格を決める座順が代わるのです。しかも他の役職を兼帯することもあります。その兼帯が1番多かったのが、享和(1801~04)~天保期(1830~44)に藩主として藩政改革を行った大久保忠真の時代でした。もっともその大きな改革は文政10年(1827)のことですから、それ以前の状況を表わす「分限帳」であると言えるでしょう。

ややこしいのでこれからは「分限帳」→「順席帳」にしたいと思います。藩士たちは小田原と江戸藩邸にいますから、それぞれ別に「順席帳」が作られることもあり、まとめた「順席帳」もあります。文化2年に近いところでは、文政8年(1825)の「順席帳」があり(『小田原市史』史料編 近世1 藩政に収録)、文政改革後のものとしては、天保4年(1833)と推測している「順席帳」があります(『二宮尊徳全集』所収)。

文化2年次といえば、忠真が奏者番と寺社奉行を兼ねていた時期になります。文政8年だと老中を務めていた時期で、京都所司代から帰ってきたのはよいですが、本格的な藩財政立て直しに四苦八苦していた時期になります。

この史料には「順席」の基本的なリストと順番が掲載されていますから、先にこのサイトでもアップした「小田原藩の順席」の図(http://www.ihmlab.net/tweet/column/12215/)も書き直さなければなりません。

とりあえず、『吉岡由緒書』ともども8月を目指したいと思います(^^)/

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
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