お題No.013の回答 火付盗賊改からお尋ねに付き

Let's古文書
お題No.013の回答 火付盗賊改からお尋ねに付き

いや、ようやく期末試験の採点が終わりましたぁ\(^_^)/入力も無事に済ませてホッとしているところです!現代教養の答案が2コマ分で150枚強、旧カリキュラムの現代教養の答案が60枚くらい。春セメに比べれば100枚くらい減りましたからその分楽なんですけれどね。ただ、他にも卒業論文基礎1のレポートも読まなければならないですし…。卒論も合わせてすべての入力が完了です(^_^)v

なので、先日出しました古文書のお題No.13 火付盗賊改からのお尋ねに対する回答書の読解をします。まずはもう1度古文書を見てみましょう。

 

お題No.13の筆耕

【書き下し文】
御尋ねに付き書付を以て申し上げ奉り候
花井新三郎知行所武州児玉郡栗崎村百性皆吉申し上げ奉り候。私養弟仙蔵身元の有無御糺しに御座候。この段前書仙蔵義は、村方百性勘蔵忰にて、母は三拾八ケ年以前寅年五月中相果候趣、父勘蔵義は拾七年以前亥年七月中相果、私義勘蔵後妻之連れ子にて候えども、前書仙蔵義その砌は未だ若年に付き、私儀父の跡相続いたし、右同人義は九ケ年已前十一月中村方百性銀蔵死失の跡相続致させ別宅仕り罷り在り候所、身持不埒の上去々丑年七月中欠落いたし、末々見届け難き者に付き、その節右の趣地頭所え届け、村方人別除帳相成り候ものに御座候右御尋ね付き申し上げ奉り候通り相違御座なく候。已上。

 

【解説】
武州児玉郡栗崎村(現・埼玉県本庄市) 百姓仙蔵の身元に関する火付盗賊改からの問い合わせについて、兄の皆吉が回答したもの。栗崎村は、幕末には川越藩領と旗本の山岡氏、佐久間氏、石野氏、美濃部氏、蔭山氏と桜井氏の7給(1村に7名の領主がいるということ)の村であった。ここでは花井新三郎の知行所となっている。「知行所」とあるのは旗本領のことで、これが幕府領であれば担当代官の「支配所」、藩領であれば「領分」と記載されるのが普通である。恐らくは、火付盗賊改の堀らから栗崎村に問い合わせが行き、該当する桜井知行所の名主市平が後見して、皆吉が回答を提出したものと思われる。

皆吉と仙蔵の関係はいささか複雑である。皆吉の申上書によれば、弟の仙蔵は、村方百姓勘蔵の忰で、母は38年前の文政元年(1818)5月に死去し、父勘蔵は17年前の天保10年(1839)7月に死去したという。そして兄の皆吉は、父勘蔵の後妻の連れ子で、血はつながっていない。皆吉の母が勘蔵の後妻となった祭にはまだ仙蔵は若年であったために、勘蔵の跡は皆吉が相続し、仙蔵は9年前の弘化4年(1847)11月中に、栗崎村の百姓銀蔵が死去したためにその跡を相続して別宅となったという。このように死去して跡取りがいなかったり、潰百姓となった家を相続することを当時、「百姓株」の相続、あるいは「百姓跡式」の相続という。当時の個々の「家」「株」として意識されていたことが重要である。

勘蔵の血を引くのは弟の仙蔵であったが、勘蔵の家は血の繋がっていない後妻の連れ子の皆吉が継ぎ、仙蔵は他家を継ぐ。一見すると理不尽なようであるが、江戸時代の村落ではよくあることである。ただ、仙蔵はどうも身持ちがよくなくて、一昨年の嘉永6年(1853)7月に欠落したという。その後行方が分からないままであったので、地頭所に届け、人別帳から除いたという。「地頭所」は旗本領主の役所のことである。旗本は、江戸時代には「地頭」とも呼ばれた。人別帳から除くというは、いわゆる「宗門改人別帳」と呼ばれる一種の戸籍から除籍されることを言う。あまり辞典などには明記されていないが、この処置によって仙蔵は「無宿」となったのであった。ペリーが浦賀に来航したのが6月であったから、その翌月のことである。

なお、火付盗賊改は、江戸市中の警備を担っていたが、幕末にはとくに関東の周辺村落に対して、このような問い合わせや廻村などが増えてくる。江戸の警備や関東取締出役との関係を含めて、今後、検討しなければならない課題であろう。

いかがだったでしょうか?また、次も近々アップしますのでお楽しみに!

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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