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お題No.003の回答 年賦金年延べ証文

第3回目のlet’s古文書です。いかがですか?読めましたか?字のくずしとしては典型的で読みやすい文書だと思います。
ところで、今回からは、「書き下し文」では差出人(発給者)と請取人(受給者)の部分は省略しようと思います。スペースを空けていても左の方によってしまうので、これらについては「筆耕」を画像にしたものでご確認ください。

お題No.003の古文書

お題No.003の筆耕

【書き下し文】
年賦済み年延べ添え証文の事
一金五拾壱両壱分 永百八拾弐文
此済方左之通
一金九両弐分 永三拾七文   丑十一月晦日限り相渡す議定
一金九両壱分 永百三拾七文  寅十一月晦日限り相渡す議定
一金九両と  永百七拾弐文  卯十一月晦日限り相渡す議定
一金八両壱分 永百四拾弐文  辰十一月晦日限り相渡す議定
一金七両弐分 永弐百拾五文  巳十一月晦日限り相渡す議定
一金七両と  永弐百三拾弐文 午十一月晦日限り相渡す議定
右は去る戌年二月十三日田地五ケ年証文を以て年賦済み韮山御役所より御声掛け仰せ付けられ、其元より御出金下し置かれ候所、戌・亥両年済み方仕り、子年不作に付き右年賦済み方出来仕らず、これより御役所より厳しく済み方仰せ付けられ候得共、困窮の村方甚だ難渋仕り、年賦済みの処亦々年延べ済み方願い上げ奉り候所、格別の思し召しを以て御役所より其元え段々御入り訳仰せ聞かされ、拠んどころなき御儀御心得成され、来る丑年より午年迄六ケ年済みに成し下され忝く存じ奉り候。然る上はこの後凶作は申すに及ばず、世上一統如何様の違変これあり候共、毛頭迷惑の筋申し上げず、期月限り急度御役所え上納仕り、其元え御下げ渡し仰せ付けさせられ候議定に付き、御裏印頂戴奉り相渡し申し添え証文依って件の如し。
【解説】
土手和田村では、文政9年(1826)の2月13日に、田地を担保にして(面積は不明)金51両1分と永182文を5か年賦で鹿嶋屋から借用していた。この場合、個人的な借金ではなくて、いわゆる村の借金で「村借(むらがり)」と呼ばれるものである。しかもこの借金には、「韮山御役所」すなわち韮山の江川代官所の口利きで借り受けたものだという。江川は代々太郎右衛門を名乗っているが、この当時の代官は、幕府の中でも開明派の幕臣として、韮山反射炉を建てたことで有名な江川英龍(ひでたつ)である。
土手和田村は、このまま文政8年・9年は無事に返済したものの、本年、文政11年(1828)は不作で返済が滞ってしまった。そこで改めて返済の引き延ばしと、6か年賦返済を代官所を通じて鹿嶋屋に願い出て認められたことで作成された添え証文である。
この6年分の合計は金50両2分と永935文となっている。仮に当初の年賦返済が均等だったとして、1年分は金10両1分余、2年間で金20両2分余をすでに返済していることとなり、返済の総額は実に金71両余にもなる。利足は1割5分を切る程度であるが、これくらいの利足が普通だったことは前にも述べたとおりである。また、こうした年賦返済の形式は、相模国の江川支配所でもよくみられるものであった(『大磯町史』通史編近世)。
ところで、借用先の鹿嶋屋であるが、どんな商人なのだろうと考えていたところ、本学から神奈川大学の大学院に進学した岡崎佑也君が、たまたま小田原に関する文献として、徳島県立文書館の展示図録『第十三回企画展 阿波商人鹿嶋屋 小松島・井上家文書より』のコピーを持ってきてくれた。阿波藍は全国的に流通しており、阿波の藍商人もまた全国的に活躍していた。そのなかでも鹿嶋屋井上家は、関東から東海地方にかけても出店を出すなど、現在の静岡県から神奈川県にかけて活発に活動しているのである。この図録で確認したところ、この鹿嶋屋は、鹿嶋屋沼津本店の店主甚太郎であることが確認できた。伊豆の近辺に進出していれば、当然、江川代官所とのかかわりも深いのである。
借用証文にはまさにさまざまな情報が詰まっていることの典型のような古文書である。
※先に本回答を公表した際に、解説中の村名「土手和田村」を「和田河原村」とあやまって表記しておりました。お詫びして訂正いたします。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
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