お題No.005の回答 ちょっと古めの質地証文

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お題No.005の回答 ちょっと古めの質地証文

この証文の年号は「延宝三年」と書かれていましたね。「宝」は旧字です。延宝3年といえば、西暦で1675年ですから、江戸時代の前期にあたります。今までは1番ふるい証文です。

 

お題No.005のお題

 

お題No.005の筆耕

【書き下し文】
手形の事
一中おねの畑残らず金子五両三分弐百文請け取り質物に相渡し申す所実正也。年季の儀は中七年に相定め卯之拾(十)月より戌之十月迄入れ置き申し候。年季の内は御 公儀様御年貢・御役等は我等急度相勤め申すべく候。この田地において余方よりかまい御座なく候わば、我等罷り出で申し分け(訳)仕るべく候。年季相極り候わば、本金は押し切りに御座候間、田地御返し下さるべく候。後日のため仍って件のごとし
    小作手形の事
一中おね之畑残らず御年貢壱年壱両ずつ上木共ひかゑ申し候。年々御年貢十月前に相済し申すべく候。若し遅々申すにおいては田地作物・上木共に御取り上げ成され候共、一言の違(異)儀申す間敷く候。仍って件の如し
【解説】
延宝3年(1675)ですから、江戸時代後期の古文書に比べれば、同じ借用証文でも文字がずいぶん違うと思いませんか?江戸時代の書体は、御家流もしくは青蓮院流といわれる書体で書かれていますが、その過渡期と言えるようですね。
「中おね」は字名(あざめい)でそこの畑全部を金5両3分と弐百文で質入れするというのです。誰に質入したのか、請取人が書かれていません。また、利足の記載もありません。
興味深いことの1点目は、年季を「中七年」としていることです。江戸時代には「0(ゼロ)」を起点として数えませんから、7といえば、始まりの年を1として、実質6年ごということになります。「中七年」はだから、正確に7年目ということになります。
第2は、年貢と御役(諸役)はこちらで勤めるということです。質に入れるわけですから、質入の期間は耕地は相手のものになります。そのため、年貢や諸役は質にとった側が支払うのが普通です。そうしないと、質入れしてお金を借りた側はさらに苦しくなります。ところが、江戸時代の前期は、こうした契約で借りることも多いのです。これを「頼納質」と書いて「らいのうじち」もしくは「たのみおさめじち」といいます。そうまでしてお金を借りる必要が多かったということですね。
次の「手形之事」は、この畑地を上木ごと「庄助」が小作地として借り受け、そのことを証人として質入主の「勘右衛門」が確約したものです。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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