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お題No.008の回答 年貢割付状

何ともはや、回答が遅くなってしまいました。申し訳ございません。深々とお詫びをしたところで、早速、翻刻から参りましょう!

お題N0.008の古文書

お題N0.008の筆耕

【書き下し文】
右の通り、辰御年貢米并びに畑金勘定の通り村方名主・組頭・百姓并びに
越石百姓共に立ち合い、高下これ無き様に割合致し、来たる十一月廿日限り皆済仕り候。以上。

【解説】
江戸時代の年貢は、村を単位として納入しなければなりませんでした。これを年貢村請制といい、村で納めるべき年貢の額を示した命令書を年貢割付状といいます。これは武蔵国児玉郡栗崎村の名主・組頭・百姓に宛てられた年貢割付状です。栗崎村は、現在の埼玉県本庄市に属する村でした。村高は、17世紀後末の『元禄郷帳』で687石余、19世紀前半の『天保郷帳』で688石余、明治初年の『旧高旧領取調帳』で677石余となっています。
『角川日本地名大辞典』によれば、栗崎村は、江戸時代のはじめから、1村が旗本や幕府、藩などの複数の領主に別れた「相給(あいきゅう)」村落であした。それも紆余曲折を繰り返します。発給主の花井庄左衛門は、そうした旗本領主の一人であり、栗崎村687石余の内、30石を支配していました。旗本領は各村に分散しており、それらを合計しても400石~500石程度が多いのです。年貢割付状は、各田畑の等級ごとに書き上げられていくため、非常に長くなるのが普通ですが、この史料は、領地が少ないだけ、コンパクトに収まっています。
年貢には1反当りに年貢量を算出する場合と、村高に年貢率をかける場合があり、前者を反取法(たんどりほう)、後者を厘取法(りんどりほう)といいます。また、畑方については、米ではなくて、永楽銭(永楽通宝)で計上されており、これを関東畑永法といいます。永楽銭は、中世に中国から輸入して流通した銭貨でした。江戸時代に入って寛永通宝が生産されると使用されなくなりますが、1両=永1貫文で計算されたので、計算のための基準として残りました。これをさらに江戸時代の通貨に換算するのです。ここでは1両1分永300文となっています。また、川欠や砂入りの土地が面積から引かれていることから、年貢の算出方法としては、畝引検見(せびきけみ)が行なわれたかと思われます。検見は、実際に1歩(坪)の稲を刈り取ってその年の年貢量を決めるやり方で、畝引検見は、欠損分があった場合、それを反別(面積)から差し引くという方式を採るものでした。
なお、割付中の「取下り(とりくだり)」は従来の反取額を、災害などによって地味が下がったために引き下げたものをいう。また、越石(こしこく)百姓とは、他村の百姓が自村の田畑を耕作している場合をいいますが、この場合は、花井村内で、他領主の百姓が耕作している場合を示すと思われます。
年貢割付状は何より、数字を読む勉強になります。一(壱)、二(弐)、三(参はほとんど使われない)、四、五、六、七、八、九、十(拾)、百、千、万(萬)のいずれかに限られるので、そのように考えて読んでいくとよいのではないでしょうか。

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投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
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