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《幕末編_02》新撰組大小銃稽古につき松平容保家臣書状の解読

新撰組に関する古文書をアップしますとTwitterに書いたところ、思いのほか、反響がありましたので、早速、解読文と解説を載せたいと思います。いかがでしょうか?読めましたか?

《特別編_2》原文書(げんもんじょ)

 

《特別編_2》解読文

【書き下し文】
肥後守預新撰組の者共、毎月一・六・三・八、大小銃致稽古候に付き、合薬并びに鉛雷管御渡し下されたき旨申し達し候処、江戸表往復日数も相掛り、即今稽古差し支え申すべく候に付き、申し立て高の三分の一、この節立替え渡し方の儀御沙汰に相成り候処、この度新撰組五拾人余人員相増し、右御渡しにては何分稽古にも相成らず不足の旨、その余り御渡し品等の儀、尚又別紙書付の通り願い出候間、御渡し下されたく、この段御武具奉行衆え至急御沙汰成し下され候様仕りたく存じ奉り候。以上

【解説】
松平肥後守容保の家臣野村左兵衛が幕府に宛てて出した書状です。これも国立公文書館内閣文庫に所蔵されている写です。

松平容保預りの新撰組が毎月一・六・三・八に大銃と小銃の稽古をするので、合薬と鉛雷管を支給して欲しいが、江戸への往復には日数がかかり、早急に稽古するには支障があるので、要求の3分の1を立て替えるとのことであった。しかしながら、今回、新撰組之隊員が50人余り増えたので、これでは稽古にならないので、不足の分を至急手配して欲しいというのです。「五月」とだけ月が書いてありますが、明らかに慶応元年(1865)の史料ですね。

ここで毎月一・六・三・八の日に稽古するとなっていますが、これはすなわち、1日、11日、21日、6日、16日、26日、3日、13日、23日、8日、18日、28日の12日分稽古をするということです。大河ドラマ「新選組!」の時代考証を担当された、東京学芸大学の大石学先生は、「武士の中の武士」「最後の武士」といわれる新選組も、確実に官僚化・近代化の道を歩んでいたとされています(『新選組―「最後の武士」の実像」―』中公新書)。幕府は文久2年(1862)の軍制改革で、海軍の創設と共に、歩兵・砲兵・騎兵の三兵からなる西洋式兵制を採用し、陸軍を創設します。その中心となるのは、小銃を扱う歩兵隊で、事実、幕府は旗本や御家人層だけではなく、広く一般庶民からも兵を募り(兵賦役=へいふやくと言います)、「歩兵組」を組織します。もっとも、兵賦役による徴発がうまくいかないので、慶応2年(1866)の軍制改革では、兵賦役よりも傭兵による歩兵組の編成へと転換していきます。

この時代の流れからすれば、新しく雇った兵員に刀や槍を教え込むよりも、小銃を教え込む方が現実的ですし、マスターするのも手っ取り早いとも言えます。もちろん、他の武芸の稽古をまったくしないわけではないのですが、その比重が鉄砲稽古にかかっていったのも当然といえば当然でしょう。少なくともこの書状によれば、会津藩では、鉄砲訓練を促進したことは明らかですね
さて、これについてはまだ関連した古文書がありますので、続きます(^^)/

 

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投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
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