《幕末編_3》新撰組の軍事化

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《幕末編_3》新撰組の軍事化

前回、新撰組の鉄砲稽古に関する松平容保家来から、幕府に宛てた書状を紹介しました。今回は、この回答となるのものです。合わせて読んで、この時期の戦争のあり方を考えて行くと、新撰組が単に治安警察機能で京都を守るという役目から今一つ、軍事的な方向へ進もうとしているのではないかと思わせるものです。

《幕末編_3》原文書SAMPLE

《幕末編_3》解読文

【書き下し文】
「新撰組の者共合薬・雷管・鉛渡し方の儀申し達し候書付
閏五月廿九日到来  松平越中守」
松平肥後守御預り新撰組の者共、毎月一・六・三・八大小銃稽古致し候に付き、合薬并びに雷管等渡し方の儀、最前申し立て高の三分の一相渡し候段は先便申し達し置き候。然る処この度五拾人余人員相増え、右の渡し方にては不足に付き、猶又別紙の通り合薬六拾弐貫五百目、鉛弐拾五貫目、火縄四百輪、雷管一万箇、具足百三拾領、大銃五挺、ケヘール三拾挺、先々相渡し候品と引き替え、尤も損所もこれ有り候は手入れに相成り候様致し度き向き、右家来書付差し出し候に付き、御取締掛りえ相達し取り調べさせ候処、右は渡し方有無御武具奉行え承り合い候処、御具足御貸し渡しの儀は、当時御有り物古製丈夫向き専らの拵え、目重にて進退不自由に付き、先般御模様替え御修復の儀相済みにて、当時取り調べ中故、差し向き御貸し渡しに相成るべき御品これ無し。大銃の儀はこの程大坂表より相廻り候御筒車台御修復の上、松平肥後守え相渡しの員数に寄り候儀にて、申し立ての挺数渡し方差し支え有無差し定め難く、ケヘールはこの程漸く一小隊分出来相成り候のみの儀にて、諸向き御貸し渡し願い出候向々えも御渡し方これ無き由、尤も当時新撰組え御貸し渡しこれ有り候和流御模様替え御筒損所出来の分は、御下知次第手直し致し相渡し候歟、又は同様の御筒を以て引き替え候心得の旨申し聞け候。且又合薬并びに鉛・火縄・雷管等の儀は最前合薬等請け取り度き旨申し立ての節、火薬等御渡し方その御地の於いて御規則もこれ有るべし。自然右御規則より過当の渡し方にては然るべくとは申し難く、一応各様え申し達し御申し越され候趣を以て、否相達し候方に候得共、左候ては往復日数も相掛り、即今稽古にも差し支え申すべき哉に付き、先づ合薬・鉛・雷管共申し立て高の三分の一立て替え相渡し、追て沙汰及び候上、差し引きの積りを以て渡し方取り計らうべき旨、御武具奉行所え申し渡し、肥後守えも相達し、前書の趣は早々各様え申し達し然るべき哉の段、当四月取り調べ候儀にこれ有り候。然る処その節とは新撰組人員も相増え候趣に付き、合薬・鉛・火縄・雷管は最前の振り合いに准じ、この度申し立て高の三分一立て替え相渡し、追て沙汰及び候上、差し引きの積りを以渡し方の儀御武具奉行え申し渡し、肥後守家来えも相達し候上、各様え申し達し置き、具足・大銃・ケヘールの儀は何れも各様え申し達し御申し越さるるの趣を以て、否相達し候方然るべき旨申し聞け候に付き、至極尤もの筋にこれ有り候間、右取り調べ候趣を以てそれぞれえ相達し候。則ち右家来差し出し候書付写弐通御披見に入れ候。否御申し越し候様致し度、この段申達候。以上。

 

【解説】
《幕末編2》の続きです。新撰組が鉄砲稽古に力を入れるということは、治安・警察機能に対して、軍事化を進めていくという方向性を示していくのでしょう。

原文書は結構長くて、写真版にしても長くなってしまいますから、ここはサンプルだけを載せておきます。サンプルの最初の部分ですが、これは「端裏書(はしうらがき)」と言います。江戸時代の文書は巻き取って保存されますから、中を確認するだけでもいちいち開いてみなければなりません。そこで、本文の概要やタイトルみたいなものを、巻き取った文書の端に書いておくことを「端裏書」と呼んでいます。
この端裏書からもわかりますように、この文書は、前回掲載した松平容保家臣野村左兵衛の書状に対する回答書になります。新撰組の鉄砲稽古について合薬等は、申し立ての3分の1だけを立て替えて渡すという幕府からの回答に対して、新撰組も50人余増員していて、これでは不足だから、至急、別紙の通り御武具奉行に命じて欲しいというものでした。発給日が閏5月22日ですから、明らかに慶応元年(1865)のものですね。これを29日に京都所司代の桑名藩主松平定敬が受け取っています。この後、容保に届けられたことでしょう。繰り返しになりますが、定敬は容保の実弟でした。

そこでこの時、容保が要望したのは、合薬62貫目、鉛25貫目、火縄400輪、雷管1万個、具足30領、大銃5挺、ケヘール、これはゲベール銃のことですね、これが30挺となっています。

これらに対する御武具奉行の回答は、具足は造りが古くて重いので、先般作り直したところで、ただいま検査中である。大銃は御筒車台を修復して大坂から容保に届けるつもりであるが、要望の数を調達するのは難しい。ゲベール銃については、やっと1小隊分を揃えたところで、これも難しい。ただ、和流(火縄銃)で改装したもので修復が必要ものは下知次第に修復して渡すか、同様の物と引き替えて渡す。火薬などはその地の規則もあると思われるので、それよりも過当には渡せない。これらを判断していたら、往復に日数がかかるので、合薬・鉛・雷管についてはやはり3分の1を立て替えて渡すということでした。

慶応元年にしては、装備の古さがやはり気になりますねゲベール銃は、高島秋帆によって本格的に日本に導入された西洋銃で、前装滑腔(ぜんそうかっこう)式、つまり前から玉を入れて、丸い筒の中を滑らせて撃ち出す銃ということになります。弾丸は、丸い鉛弾をパトロンと呼ばれる弾薬包に黒色火薬と一緒に詰めて装填します。文久年間(1861~1864)には国産化が進められ、幕府はもとより、堺や国友といった在来の火縄銃製造地でも盛んに製造されるようになったとされています。

しかしながら、これも慶応年間に入ると、前装施条(ぜんそうしじょう)式ミニエー銃が主体となってきます。弾丸に回転を与えるために銃身の内部にらせん状の溝を掘るわけで、これをライフルといい、らせんを切った銃のことをライフル銃と総称するわけです。らせんの溝のために格段に弾道が安定し、距離も伸びます。それだけ個人でも狙いやすくなるので、単独でも活動しやすくなります。前装滑腔式だとらせんが切られていませんので、火縄銃よりも格段に高性能であるにしても、施条式に比べると弾道が安定しませんから、まだ集団的での戦いが中心となります。いわゆる奇兵隊の活躍もミニエー銃の導入によるところが大きいのですね

しかしこの段階でも、ゲベール銃が1小隊分しか用意できていないといっています。1小隊はだいたい30名から60名くらいですか。いずれにしても、ここで新撰組が必要としているのは30挺で、まだ火縄の方が有力であったことがわかります。

下の写真は、2002年に箱館の五稜郭に行った際に資料館で撮ったものです。たまたま思い出して確認してみたら、ちょうどゲベール銃とミニエーが並べて展示してあったんですね。そのころはあまり注目していませんでしたので、今になってわかりました。なお、一番下にあるのは銃剣です。ミニエー銃はもちろん、ゲベール銃も銃剣を取り付けることができます。

2つの銃はよく似ていますが、ねらいを定める「照星(しょうせい)」が、ミニエー銃は先端の方に付いていることで区別していただければと思います。

政治改革、軍事改革、武器の選択…さまざまな要因が複雑に絡み合って、幕末の勝者が決まっていきます。

 

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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