7月最後の日に出したお題の回答です。回答というほどではないですが、「吉岡由緒書」にあった蛤御門の変の際の御所守衛の図です。仮に「御所守衛図」としておきましょう。蛤御門の変、もしくは禁門の変については、さまざまな研究があり…と、言いたいところですが、どうももう一つはっきりしません。一般的には、文久3年(1863)8月8日の政変で京都を追放された長州藩が、失地を回復するために、藩兵を派遣し、とくに蛤御門で会津藩、薩摩藩、桑名藩と激戦のあげく敗れる、といったところでしょうか。ところが、長州藩兵はどれだけの兵を出したのか、御所を守衛していた藩の数は、兵の数は等々、諸説があって今一つはっきりしないようです。私自身幕末の政治史にはそんなに詳しくありませんので、明確なことは言えませんが、少なくとも「吉岡由緒書」中の「御所守衛図」は、この時に、どの藩がどこを守っていたか、はっきり示されていることでも価値があるのかなと思っています。まずは全体像を知りたいなと思いますので、ここでわかることをまとめてみることにします。
まずは、現在の京都御所の空中写真を見てみましょう。本来は北を上にしなければなりませんが、PCで見ることを前提としまして、左横を北としました。
京都御苑の各門と、京都御所の各門の位置を書いておきました。「御所守衛図」にも同じように各門の位置を入れてみました。
7月31日から8月2日までの京都紀行も、これを確認するためだったのは、先に書いたとおりです。また、京都御所=禁裏御所の門が現在と異なっていることも、外の御門の位置や形状がいくつか異なっていることも先に書いたとおりです。現在の空中写真と比べると明快ですよね。乾御門と石薬師御門、清和院御門はずっと奥になっています。堺町御門と下立売御門もちょっと奥まっています。蛤御門は、30mほど奥にあって、南を向いていたと言われていますが、まさにその通りですね。
それでは、それぞれの門はどの藩が守衛したのでしょうか。一覧表にしてみました。
さて、これらをどのように読み込んだらよいのでしょうか?詳しくは、クラウドファンディング支援金1万円のリターンとして予定しています講演会でお話ししたいと思います。みなさんもちょっと考えてみてください。
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