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《幕末編_04》蛤御門の変と御所守衛図 補足

let’s古文書で「吉岡由緒書」に掲載された「(仮)御所守衛図」について解説したところ(http://www.ihmlab.net/tweet/komonjo/7355/)、元京都市歴史資料館の伊東宗裕先生からコメントをいただきました。伊東先生は、古絵図研究の第一人者です。この「御所守衛図」は、管見では文久3年(1863)東雲堂刊「内裏細見之図」を換骨奪胎して写したものではないかとのことでした。しかもありがたいことに、その後、メールのやり取りで、『叢書 京都の史料14 内裏図集成 京都御所と公家町』(京都市歴史資料館 1997年)のPDF版をいただいたものをいただきました。すでに製本版の『内裏図集成』は市販されていないとのことでしたから、本当にありがたい次第です。

文久3年の東雲堂刊「内裏細見之図」は、28ページにあります。比べてみると、御所の外の門の場所と名前、中の門の場所と名前、御所の形状、仙洞御所の形状、公家の名前等々ピタリと一致します。確かに必要な部分だけを模写して、後は省略し、ここに守衛のために配置した藩を書き込んだことがわかります。先生のお話では、古絵図学の立場からこららの「内裏図」の利用方法として、京都守衛に来ていた各藩の藩士にとっても、便利な公家町住宅地図の類として利用されていたという仮説を実証する実例として注目されたとのことでした。目から鱗が落ちる想いです。なるほど、こういう視点もあったのかと改めて考えされられました。

それにしても『内裏図集成』はすごい内容です。現在知りうる限りの「内裏図」をほぼ網羅していると書かれてありました。確かに寛文2年(1662)から慶応2年(1866)まで、近世前期から幕末までの内裏の変遷を追うことができます。私自身も「吉岡由緒書」の「御所守衛図」には原図があったとは思っていましたが、おかげさまで確認することができました。それ以上に、内裏の変遷まで確認することができて感謝の言葉もありません。さらに『内裏図集成』をみていくと、南門を建礼門、日御門を建春門、公卿門を宜秋門とする図もあって、江戸時代からすでにこの名称を使っていたことがわかります。でも、この違いはどこから来ているのでしょうか。

さて、もう1件、これまでの研究で御所の守衛はどこまで明らかになっているのでしょうか。もちろん、対象は専門書です。探してみると、三宅紹宣(つぐのぶ)先生の『幕長戦争』(吉川弘文館、2013年)の17ページに掲載されておりました。原図は、芝原拓自『日本の歴史23 開国』(小学館、1975年)とのことでした。引用させていただきます。

※三宅紹宣『幕長戦争』(吉川弘文館、2013年)の17ページより引用

中の御門の門の名前が異なっておりますが、小田原藩が日御門(ここでは内侍門)を守衛していたことが描かれています。しかしながら、他の藩の配置にはかなり違いがあるようですそもそもの原図もしくはこの図のもとになった史料がはっきりしませんので、日にちの違いなのかよくわかりません。この辺については、特別講演会で詳しく検討してみたいと思っています。

引き続き、小田原藩士「吉岡由緒書」翻刻プロジェクトのクラウドファンディング(https://academist-cf.com/projects/?id=50)にご支援をお願い申し上げます。

 

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投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
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