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《幕末編_05》新撰組の幕臣取り立て再考

お題として、新撰組の幕臣化に関する古文書を提示してからもうひと月以上が経ってしまいました。回答が遅れましてたいへん申し訳ございませんm(_ _)m時間とかの問題もそうですが、いろいろと調べて考えるのにちょっと時間がかかってしまったというのが本当のところです。ここでは近藤勇と土方歳三の幕臣身分と役職は結局なんだったのかについて考えてみましょう。

《幕末編_05》原文書

《幕末編_05》解読文

【書き下し文】

松平肥後守御預り新撰組の儀、五ケ年以来召し捕り者その外非常の役前勉励相勤め、功労少なからざるに付き、身分・等級を立て、御賞の儀今般肥後守申し立て候間、別紙写の通りそれぞれ申し渡し候様相達し候間、御心得としてこの段申し進め置き候。以上。
(中略)
猶以本文の儀、当地町奉行見廻役並御目付え心得として相達し置き候。以上。

新撰組
局長
近藤勇
身分御取り扱い方向後御目見以上の御取り扱いに成し下さるべく候。
副長
土方歳三
同文言 見廻組肝煎の御取り扱い

【解説】

新撰組預りの京都守護職松平容保が、新撰組の功労に応えるために、「身分・等級」を御賞として与えて欲しいと幕府に願い出、これを受けて老中板倉勝静が別紙の通りに申し渡したことを他の4名の老中に報告したものです。この時期、板倉は、将軍徳川慶喜に従って京・大坂にいましたので、江戸に居る老中にあてて出したわけです。年号は書かれていませんが、慶応3年(1867)6月の史料。5か年以来、つまり浪士組が結成された文久3年(1863)より、探索や非常時の役目に功労が大きいとあります。ここではまず、容保から幕府に願い出、これを受けて幕臣として取り立てられたということを確認しましょう。幕府が容保に命じて幕臣に取り立てたという言説が散見できるからです。
そこで問題は、実際に取り立てられた幕臣としての「身分」は何かということです。近藤勇については、「京都見廻役並」から「京都見廻役格」「京都見廻組与頭(与頭)格」等々、本によってもネットで探ってもいろんな表現が出てきます。

で、こんな時には第1次史料にあたるのが一番です。今回の史料も国立公文書館内閣文庫に収められていた史料で、写ですが、その当時のものをそのまま写したと考えられますから、第1次史料です。第1次史料を後の編纂の際に利用すれば第2次史料、第3次史料となっていきます。それでも、そのまま引用してくれればいいのですが、その際に加筆修正されることがあります。これがまぁ間違いの大きな原因になります。たとえ時代が近くても、近いからこそ間違えることもありますし、恣意的に改ざんされることもあります。「維新史料要綱」の記述だって必ずしも正しいと限りませんし、そもそも近藤勇の幕臣取立については記述そのものが出てきません。
さて、この本文を素直に読めば、近藤は「御目見以上」すなわち旗本と同じクラスとなります。大名と旗本の違いは、知行高(領地)が1万石以下か以上かということと、将軍に御目見ができるか否かになります。ただし、旗本の中には知行地を持たず、蔵米取(幕府から直接、米を給料として支給されること)の旗本もいますので、御目見ができるか否かがもっとも重要な目安になります。さらに「猶書(なおがき)」を読むと、「当地町奉行見廻役並」、すなわち「京都町奉行見廻役並」みに心得ることとあります。

そこで京都見廻役ですが、『柳営補任(りゅうえいぶにん)』によれば、これは元治元年(1864)4月にはじめて任命され、役職としての席次は「大御番頭次席」で、役職になるために必要な石高は5000石、他に役料として3000俵が支給されることになっています。『柳営補任』は、幕臣の根岸衛奮(もりいさむ 1821~76)が編纂した幕府の役職の任免を示した「役職名簿」のようなものです。とくに江戸の初期の記述には誤りも多いといわれています。また誤字などもありますが、幕府の役職を調べるための基本中の基本史料です。ここには旗本と大名の役職が役職ごとに就任年月日順に並べられ、その前職と後職についても書かれていて、たいへん便利です。

※『柳営補任』より


『柳営補任』によれば、初代の見廻役には、備中浅尾藩1万石の藩主蒔田相模守広孝と、交代寄合高6000石の松平因幡守康正が任命されています。交代寄合とは、旗本の中でも大身(たいしん)、すなわち身分の高いクラスの旗本で、自らの知行地(旗本の場合は、大名領で言うところ領地のことを知行地といいます)に居住して、参勤交代を行なうという特別の存在です。だいたい知行高は3000石以上で、一般の旗本が若年寄支配なのに対して老中の支配を受けます。旗本といっても、400石程度のクラスの者が多く、蔵米取もいるわけですから、5000石といえば文字通り大身です。家格なので3000石以上あっても交代寄合ではない場合もあります。だいたい30家ほどあって、基本的に幕府の役職にはつきません。また、蒔田と松平の後任は、信濃飯田藩1万5000石の堀因幡守親義と、交代寄合の旗本4500石の小笠原弥八郎長遠となっています。
つまり京都見廻役は、もっとも小身クラスの大名と、交代寄合が就任した役職ということになります。交代寄合は役職には就かないわけですから、これ自体が臨時の措置になるわけです。

では、近藤勇はどうなのでしょう。ここで注目されるのが、『柳営補任』にある、慶応3年(1867)5月に「於大坂御目付ヨリ、並」と記された「岩田織部正(おりべのしょう)通徳」です。これは大坂において、御目付から「京都見廻役並」に任命されたと読むのが普通でしょう。しかも岩田は蔵米取の旗本で、蔵米として支給される額は高100俵に過ぎません。つまり正式の京都見廻役と比べれば、席次も拝領高も違うわけです。ここから言えることは、近藤はまさに、この岩田と同じクラスの旗本身分として取り立てられたということです

京都見廻役は、それぞれ「見廻組」を率いて京都市中の警備に当たるわけですが、その下で指揮を執るのが「京都見廻組与頭(組頭)」です。『柳営補任』には、7名の人名が書き上げられていますが、いずれも旗本です。場所高は、これに就くことができる旗本は家禄が高300俵以上で、席次は御書院番の次、勤方は家禄が200俵高で、大御番の次となっています。つまり小林弥兵衛・間宮孫四郎・土屋助三郎・久保田善三郎が京都見廻役与頭で、大津源次郎・大野亀三郎・芳賀栄之進の3名が「京都見廻組与頭勤方」となるのでしょう。
『江戸幕府旗本人名辞典』や『江戸幕臣人名事典』といった幕末の旗本を確認できる史料で探せば、土屋助三郎は高400俵の旗本で、「元治元子年五月十六日京都見廻役組頭被仰付」とあります(『江戸幕臣人名事典』)。ただし、内66俵は足高とあります。また、芳賀栄之助は高100俵五人扶持で、内50俵と三人扶持は足高となっています(『同書』)。「京都見廻組与頭」と「組頭勤方」の違いも確認できるのではないでしょうか。いずれも小身の旗本ですが、やはり区別があったことがわかります。

次に土方歳三についてですが、「同文言」で「見廻組肝煎之御取扱」とあり、近藤と同じ文言ということですから、復元すれば「身分御取り扱い方向後見廻組肝煎の御取り扱いに成し下さるべく候」となります。こちらは旗本の身分ではなく、御家人か、相続できない旗本つまり次男や三男などということになります。だから『柳営補任』には「見廻組肝煎」という役職は登場しません。『柳営補任』は、旗本以上の役職の変遷をまとめたものなのですから。

近藤と土方は、「京都見廻役」関係の役職と同等の役職となったわけですが、そのものとなったわけではありません。ですので、この同等の、という意味を一般的には「格」として表現します。ですので、近藤勇「京都見廻役並格」として旗本に取り立てられ土方歳三は、御家人と同等クラスとして「京都見廻組肝煎格」として取り立てられたと表現するのが妥当でしょう。

次の回には新撰組の隊士の取り立て全般についてまとめてみたいと思います。

 

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投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
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