藤沢市文書館

今日のつぶやき
藤沢市文書館

昨日は、久しぶりに藤沢市文書館に行ってきました。その名の通り、神奈川県藤沢市にあるアーカイブの施設です。これも変な言い方ですけどね。文書館とかいてもんじょかんと読んだり、ぶんしょかんと呼んだり、公文書館と書いてもこうぶんしょかんと呼ぶかと思えば、こうもんじょかんと呼んだり、一定しないのですね。よく言われるように、明治になって日本はLibrary=図書館とMuseum=博物館、美術館は輸入したけれど、Archivesについては輸入しなかった。もしくは、Museumとの違いがよくわかっていなかったと言われていますが、いずれにしてもまだまだ認知度が低い施設です。そうした中で藤沢市文書館は、1974(昭和49)という早い時期にオープンしています。これは、当時、藤沢市史を担当していた児玉幸多先生が、市史を引き受ける条件として、文書館を建てさせることを約束させたと伺っています。凄い先見です。児玉先生は、南足柄市史と寒川町史でご一緒させていただきましたが、本当に大家とと呼ぶにふさわしい先生で、しかも少しも偉ぶったところがない。あのようには自分はなれないだろうなとは思っていましたが、案の定です(^^;)

話が横道にそれました。久しぶりと言っても何十年ぶりでしょうか(^^;)その昔、文書館で江ノ島の岩本楼が所蔵する古文書の勉強会をやっていたときに少しだけ参加させていただきました。それからほぼバックヤードにしか入ったことはなかったのですが、あれ、閲覧室ってこんなに小さかったかなと思ってしまいました。何せ全国的にみても先駆者ですからね。

で、何のために行ったかというと、先にも告知しました関東学院大学の講座「横浜学」に関する資料を複写させていただいて、当日、それを元に話をしようと思っているからです。藤沢宿大久保町の名主堀内悠久の息子郁之助が描いた、慶応元年(1865)の将軍家茂長州征伐御進発の図と、同4年(1868)の大総督江戸東下の図です。郁之助は、前者を12歳で、後者を15歳で描いたと言われています。それは凄いことで、まだ内容を細かく精査した方がいないので、評価は難しいのですが、興味深いことは確かです。「横浜学」では、「幕末の東海道と横浜」というタイトルでお話しする予定ですが、ここでは家茂の上洛から明治天皇の東幸まで、時代を動かしたさまざまな「通行」についてお話ししようと思っています。とはいえ、時間は限られていますから、触りだけですけどね。

ところで、『YokohamaWorker』の最新号に、「横浜学」の広告が載っていました。ん~む、私としてはビミョーな写真ですね。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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