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春待つ庭にて 行くぜ益子へ

同窓会のための3日間帰郷はまぁ~いいとしても、その後の1週間のインフルエンザは痛かったですね。昨日は、緒形拳研究会の研究助成費の申請書を慌てて作成して郵送し、今日は「吉岡由緒書」関連の論文の修正を完了させて…と、本当にバタバタです。本当は先週締切りだったのですが、インフルエンザ真っ最中。その後もやる気がせず(それはあかんのですが… ^_^;)、結局のびのびとなってしまいました。もうシャカリキです。

それにしてもここのところ寒いですね。我が家の庭もかみさんがカンパニュラを植えたようですが、まだまだまだまだ殺風景なまま。

スノードロップも近年は咲かなくなったし、まだまだ春は遠し…という感じですね。でも、そんな中でも、天気のいい日はなな君、ベランダに出てまぁ~るくなってしばしお眠り。というか、結構、寝ていますね。その姿もまたかわゆし(^^)

考えてみたら、出勤停止が解けてからまだ2日なんですね。なんだかバタバタしていて、そんなことも忘れていました。今日は、卒業論文基礎1の最終授業です。で、授業が終わって5時を回ったところで、益子町の教育委員会から電話。講演の依頼でした。そう言えば、横浜市中央図書館の平野君から依頼が行くと電話がありましたね。もう、すっかり忘れていました。3月17日の日曜日。とくに何もないので、引き受けてしまいました。

益子町に初めて行ったのは、大学4年生の時、1981年でしたね。夜間についてバスを降りたら、とにかく真っ暗で、信号機の灯りしか見えなかったことを今でもはっきりと覚えています。イルカさんの歌に「益子の茶碗に玄米茶」と歌うフレーズがあって、それが益子焼のことだと改めて知ったのでした。

いずれにしても益子町史は、私の研究生活のすべての原点です。最初の論文も下野国黒羽藩が行なった幕末の検地政策についてでした。さて、何を話そうか。これと関連して、幕末期における黒羽藩の藩政改革と下之庄について話そうか、それとも益子村寄場組合の見張番屋政策を中心とした話にしようか…。あ、下之庄は黒羽藩の飛び地領である益子周辺の領地を総称した呼び名です。黒羽町は上之庄と呼びます。益子焼も実は、この黒羽藩の藩政改革、とくに産業振興策と関係しているのですね。

見張番屋政策は、横浜が開港して、横浜周辺の10里四方が外国人の遊歩場として設定された際に警備のために行なわれたものが、ここ下野そして常陸、下総辺りでも行なわれます。言うまでもありませんが、水戸藩の攘夷派対策です。だから、見張番屋政策はその後の水戸天狗党の乱や薩摩藩の出流山挙兵、そして慶応4年(1868)の野州世直し一揆にもかかわってきます。う~む、もう少し考えてみますか。

 

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
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