Professor's Tweet.NET

GW さくらゆきと浦賀史跡めぐりのご報告

本日6日はまだGWの最終日なのですが、大学は関係なく授業日です。朝の9時から100分授業の2コマ…。いずれも現代教科目「人文科学と歴史学」の授業でしたら、200分-3時間と20分しゃべり続けていたわけです。GW明けにこれですから、さすがに疲れました。しかも4時限目には旧カリキュラムの現代教養 文理共通科目の「江戸学と現代社会」がありましたから、本当に疲れましたわん。

さて、GW中はどこかの史跡めぐりをして歩き回っているか、じっと机に座ってレジュメを作っているかのどちらかで、その間は疲れて1日中寝ていたり、昨日はマッサージに行ったりと、極端でしたね。しかもただ歩くだけではなくて、登ることが多い日々でもありました。だから、書いておきたいことがヤマほどあってもバタンキューな毎日でしたので、少し、振り返っていきたいと思います。

さくらゆき

さくらゆきは、歴史タレントの小栗さくらさん北織さよさんのコンビ名です。もともとは遠野ゆきさんとさくらさんのコンビだったのですが、ゆきさんの卒業を受けて、この3月からさよさんが新メンバーになりました。お三人+αで(失礼します)マネージャーさんとは、TwitterやFacebookなどでやり取りしていましたら、何だか旧知の仲みたいなのですが、お目にかかるのは初めてでした。とくにマネさんとはTwitterで遊んでいますから…(^^;)

で、今回第10回ファンの集いとして浦賀の史跡めぐりを開催するというので、誘われた次第でした。横須賀市史の専門部会(近世)に所属して、通史編ではとくに「海防の最前線」と題して、ペリー来航以前の三浦半島の海防政策についてまとめていましたから、お手の物!と言いたいのですが、ほとんど市内を歩いたことがなかったので、実は不安いっぱいでした。ちょっと助っ人を雇ったり、資料(レジュメ)を作成して、当日に備えておりました。もちろん、これまでも史跡めぐりの案内とかやったことはあったのですが、だいたいが講演会が中心で、しかもこのようなファンミーティングに参加すること自体が初めてでした。もちろん、皆さんの1番のお目当てはさくらさん、さよさんと交流することなのですが、さすがに歴史タレント!皆さんも、歴史が好きで、熱心に聞いていただきました。

中島三郎助を偲ぶ

集合場所は京急の浦賀駅。実は浦賀まで電車で来るのは初めてでした(^^;)しかも浦賀をまわるのも市史の巡見で廻って以来、実に10年ぶりのこと、ほとんど忘れていますね。

京急浦賀駅
説明をするさくらさん

こちらが小栗さくらさんです。浦賀駅を降りて、参加者のみなさんに浦賀と、今回のメインである浦賀奉行所与力中島三郎助についての想いを熱く語ってくれました。さくらさんは本当に多彩な方で、さくらゆきはCDも出していて、戦国時代や幕末を中心に、いろんな人たちを題材にした歌を歌っています。ファンの皆さんもそうしたさくらゆきの歌が大好きなのですね。こうした中でさくらさんは、歌の作詞はもちろん、昨年は講談社の『小説現代』に土方歳三を題材にした歴史小説「歳三が見た海」を発表されて、小説家デビューを果たしていらっしゃいます。その他、各種イベントの司会や、声優等々多彩な活動をされています。とにかく歴史が好きで、いろんな人に歴史を好きになって欲しくて、一生懸命やっているさくらさん、ゆきさん、そしてさよさんを見ていて応援しているのでした。

中島三郎助は、浦賀奉行所の与力で、身分的には幕府の御家人なのですが、ペリーが浦賀に来航した際に、奉行所の小船でオランダ語の通詞堀達之助とともに
サスケハナ号に乗り込み、「副奉行」と称してペリーと交渉を行ないます。何とも豪胆な人物です。その後も三郎助は、長崎海軍伝習所の第一期生として軍艦の操縦法など学び、軍艦操練教授方、軍艦頭取などを歴任します。戊辰戦争では榎本武揚らとともに軍艦で品川を脱出して箱館に向かい、千代ケ岡陣屋の陣屋隊長となります。最後まで幕府に忠誠を尽くした三郎助は最後まで新政府軍とたたかい、明治2年(1869)5月16日長男恒太郎、次男英次郎とともに千代ケ岡陣屋で戦死します。享年は49歳でした。

さくらさんの話を聞いていると、レジュメにもっと中島三郎助について触れておけばよかったなと後悔しました。この浦賀史跡めぐりの主役は三郎助だったなと、マネさんにも一応、聞いてはいましたが、打ち合わせのできない哀しさですね。

さて、浦賀史跡めぐりは浦賀ドックを遠目に眺めて、三郎助親子の眠る三浦山東林寺へと向かいます。三郎助親子の墓は現在は一般公開はされていないのですが、マネさんが交渉してお詣りすることができました。

中島三郎助・恒太郎・英次郎の墓

さらにマネさん、素敵なことに東林寺の御朱印をいただいてくれていました。一緒に来たかみさん、御朱印帳を持ってこなかったことを嘆いていましたから、本当によかったです(^^;)

超レアものですね!それにしても、三郎助は、箱館から浦賀にあてた書簡で、墓を浦賀に建てることはもちろん、その墓の形まで図で書いています。だいたいその通りのお墓で、三郎助の覚悟が心をうちます。この書簡は、最後に訪れた浦賀の資料館で見ることができますので、興味のある方はぜひご覧ください。

東浦賀探訪

浦賀は元禄5年(1692)に東浦賀村と西浦賀村に分村し、享保5年(1720)に下田から船改めのための番所を西浦賀村移します。さらに海辺の番所とともに、その奥にさまざまな事務作業や支配地の管理を行なう施設として役所を建設します。この総体が浦賀奉行所です。

東林寺は東浦賀にあって、それから東叶神社とその裏山の明神山に登ります。明神山は、勝海舟が断食修行を行なった場所と言われていますが…、真偽のほどはさて…。こちらは東叶神社前での記念撮影。さくらさんとさよさんです。

さくらさんとさよさん(東叶神社にて)

それにしても、このGWは香川でもそうでしたが、よく階段を登ります。老体にはきついです。それでも何とか頑張って、降りてきて、渡船場から船で西浦賀に向かいます。ここで12時を過ぎていたのですが、このファンの集いは、お昼の時間なんざぁ設けないで、ひたすら歩くのだそうです。実際、私も浦賀駅の京急ストアーで買ったおにぎりをここで食べただけでした。

西浦賀探訪

西浦賀では当然のことながら、番所跡から役所跡へと廻ります。役所跡は、以前は住友重機械工業の社宅が建っていたのですが、現在は更地になっていました。横須賀市が寄贈してもらって、役所を復元するという計画もあるようですが、何せ道路が狭いのが浦賀ですから、大型バスなんか入れないでしょうね。それに以前、役所の遺構として唯一残っていた「石橋」も鉄板の下に隠れて見えなくなっていました。周辺の溝にちょっと往時を偲ぶだけですね。

浦賀役所をあとにすると、西叶神社を経て、裏手の明神山に登ります。また山登りです(^^;)ここには与謝野鉄幹・晶子夫婦の歌碑や中島三郎助の顕彰碑が建っています。

中島三郎助顕彰碑
与謝野鉄幹・晶子夫婦の歌碑とさくらさん・さよさん

なお、西叶神社には、三郎助の後、交渉にあたった同じ浦賀奉行所与力香山栄左衛門の顕彰碑が建っています。

香山栄左衛門顕彰碑

最後は、郷土資料館で浦賀奉行所と中島三郎助関係の史料の展示の見学です。実はそれで終わりかなと思っていたのですが、それから横須賀中央駅に言って、戦艦三笠の見学まで…実は私、三笠公園に行くのも初めてでした。しかも、郷土資料館から雨も落ちてきました。晴れ男が自慢だったのに、やれやれです。

戦艦三笠・東郷平八郎像の前で

さすがに日露戦争でバルチック艦隊を破った日本艦隊の主力艦ですね。改めてその大きさにびっくりです。艦内の展示館展示室なども興味深く見学していたのですが、終了時間の50分前くらいに入ったので、ゆっくり見学することは叶いませんでした。一応、最長見学コースは60分とのことです。

最後はしゃぶしゃぶの食い放題で打ち上げをして、私はみなさんとお別れです。なかなかこういう体験をする機会はありませんでしたので、本当に楽しかったです。本当にもう少し、人物を取り上げていけばよかったなと反省をしながら、横須賀を後にしたのでした。せっかくですから、レジュメをPDFファイルにしましたので公開します。一部、削除した部分がありますが、オリジナルの表はそのまま載せていますので、興味のある方はぜひご覧ください。

また、このように頑張っているさくらさんとさよさんのさくらゆきもぜひ応援してあげてください。

Amazon.co.jp ウィジェット

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
モバイルバージョンを終了