「腑に落ちませんでした…」脱藩大名林忠崇の想い

今日のつぶやき
「腑に落ちませんでした…」脱藩大名林忠崇の想い

昨日、7月24日(水)の午後10時30分から、NHK歴史秘話ヒストリアで幕末~昭和を駆け抜けた最後の大名、その真実と信念 林忠崇が放映されました。林忠崇は、下総国請西藩(じょうざいはん・千葉県木更津市)1万石の大名で、戊辰戦争の際に、幕府諸隊の一つ、遊撃隊の人見勝太郎や伊庭八郎らに呼応し、藩主の立場を捨て、遊撃隊第4軍の隊長として、新政府軍(官軍)と闘います。その一環として、箱根の地で小田等藩兵と遊撃隊が戦火を交えます。戊辰箱根戦争です。

これに関連して、本年は遊撃隊が北海道箱館の地で敗れてから150年に当ることから、6月2日(日)に、箱根で慰霊祭-「幕末遊撃隊 己巳一五〇年」が開催され、そこで「箱根戊辰戦争とは何だったのか?-幕府遊撃隊と小田原藩の苦悩-」と題する講演を行なったのは、既報の通りです。リンクを貼っておきますので、それはそれでご覧いただければと思います。

これには、歴史秘話ヒストリアのためにNHKのカメラマンも参加していらっしゃいました。最後のシーンで、早雲寺の人見勝太郎が建立した慰霊碑の前で供養が行なわれ、林忠崇、人見勝太郎、伊庭八郎の子孫の方たちがインタビューを受けているシーンが流れました。実は、この際に、剣豪伊庭八郎の流派である心形刀流の演武が行なわれましたので、できればそのシーンも流して欲しかったなと、仲間内で話しております。

さて、歴史秘話ヒストリアは、回想シーンのドラマを中心としますから、どうしても過剰な演出などがあって、研究者の評価は正直余り高くはありません。今回もん?と思うシーンも確かにありましたが、ただ、忠崇が遊撃隊に参加し、東北の戦闘で離脱する理由については、ほぼ本人の回想をもとにしていると思われます。その点は、私も講演で触れておきました。

忠崇といえば、「真心の あるかなきかは ほふり出す 腹の血しおの 色にこそ知れ」という明治元年(1868)に詠んだという辞世の句が有名ですね。死去が近づいた忠崇に、辞世の句を求めたところ、自分は明治元年に辞世の句は詠んだので何もないと答えたと言われています。それがこれなのですね。ただ、確かにこれもそうですが、できれば、忠崇が語った先の回想にもできれば、いや、ぜひ触れて欲しかったなと思います。ここでは、講演の時の「むすび」の部分を再録しておきます。少し加筆しています。ご了承ください。

最後に勤王と佐幕という対立の構図についてひと言述べておきたいと思います。もちろん、勤王か否かがこの時代の敵味方を分ける鍵になっているのは確かで、実際、史料にもそう表現しています。ただ、例えば史料№3、2月27日に提出した勤王の請書をそのまま破棄したと考えるのはいささか違うかなと考えております。新政府に恭順することを「勤王」に求めているわけですが、小田原藩のような立場から新政府に反対することが即、勤王を否定することにはならないと考えるからです。この点につきまして、最後の最後に、林忠崇が昭和13年(1938)5月6日に、横浜市の神奈川高等女学校、現在の横浜平沼高等学校の前身にあたる学校ですが、ここで語った談話を史料№8(長坂邨太郎「林昌之助翁に就て」『安思我里』1月号 小田原安思我里社 1938年)として収録しておりますので、抜粋して読み上げたいと思います。

 いや浮世は夢の様なものです。私共若気の至りでやつた事も今考へて見ると夢です。何せ当時はお互に了解する事の少なかつた時代です。それ故大きな誤解も起る世の中でした。私はどうも薩長のする事が腑(ふ)に落ちない。将軍は水戸に退隠して謹慎しているのに、これを追窮(ついきゆう)するのはあまり無理だと思った。
 日本国に生まれた者は誰一人として天皇陛下に不忠の者はありません。すべての争いは臣下の間でする事です。両方に分れて争う場合、早く天皇陛下に接近する者が政略上官軍と称し、他を排して賊軍と言うのだと思います。西郷隆盛の時もそうではありませんか。
 これが翁の本領だと思われる。翁はそれから「世事(せじ)雲千変(くもせんぺん)浮生(ふせい)夢一場(ゆめいちじよう)」と扇面に書いて
 私は人生はマアこんなものだと思われる。そこで号を一夢(いちむ)と申しております。イヤ夢です。どうも武士道、武士道と言って鍛へられた私です。そして300年俸禄を食(は)んでいる。どうも将軍の取り扱いが腑に落ちなかった。徳川には親藩・譜代もかなりある。私が蹶起(けっき)すれば応ずる者があると思ったのが私の間違いの元です。世の中を知らなかったのです。この私の微哀(びあい)を知つて徳川家のために一顧(いっこ)を与えられたいと言うのがあったのです。何の野心もあったのではありません。一度敗れて奥州へ落ちると、薩長のやる事にも系統があり、天下はかなり早く平和になるのでなければ、外国問題も起こります。そして徳川家も駿府で封禄を与へられた。この上諸方に迷惑を掛けるに忍びないと思ひました。榎本(武揚)君など蝦夷へ来いと屡々(しばしば)申して来ましたが、私は私の考えで行動したいと思い、そして降参しました。降参すれば斬罪になると言ふ事は覚悟して居りましたが、自殺する気にはなれませんでした。自殺すれば誰も私の心事を弁解して呉れる人はないと覚悟して、泰然として東京に送られたのであります。

 明治以降には、多くの回想録や記録が出されましたが、当時、新政府に反旗を翻した者たちの意志としては、この忠崇の想いがもっとも的を射ているのではないか、大なり小なりこうした想いを共有していたのではないかと考えています。

腑に落ちませんした…。素朴な言葉かも知れませんが、弱冠21歳の若き藩主が新政府に立ち向かい、そしてそこから離脱する想いを、ある意味、真っ直ぐに表現していたのではないかと思います。だから、この回想を紹介してくれなかったことが腑に落ちないのです(^_-)

林昌之助忠崇

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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