民衆思想史学会の西相模巡見

今日のつぶやき
民衆思想史学会の西相模巡見

民衆思想史学会は、主に早稲田大学を中心に活動している学会です。今年は昨24日に小田原で研究会が開かれて、今日は巡見です。研究会には出席していないのですが、ちゃっかりと巡見だけ参加させていただきました。福澤神社の文命宮以外は行ったことがなかったので、せっかくですから。巡見をプロデュースしてくれたのは、平津市博物館学芸員の早田さんでした。

まずは、まずは小田原市にある今井陣場跡。ここは天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原北条攻めの際に、徳川家康が陣をはったといわれている場所です。『相中留恩紀略』という江戸時代後期の地誌にも登場します。

左側の写真は、小田原藩主大久保忠真が撰文した碑文です。何回か書いていますが、忠真は私の研究対象です。右上が東照宮で、右下は東照宮の中にある権現様徳川家康像です。

実は、ここで一眼レフカメラで撮影しようとしたところ、「カードが入っていません」という警告が…。何とSDカードを入れ忘れていました(^^;)次は大磯の澤田美喜記念館でしたから、大磯駅の前でマイクロバスが停まったところで、駅前の写真屋さんで急いで購入しました。そしたら、ミニSDにアダプターでした。やれやれ…。

澤田美喜は、三菱財閥の創業者岩崎弥太郎の孫です。戦後にハーフの孤児たちを引き取ったエリザベス・サンダース・ホームでも有名ですね。

澤田美喜記念館は、澤田美喜が生前40年に渡って日本の津々浦々を巡って収集したキリシタン関係を研究・展示している施設です。コレクションは約870点ほどあるとか。中はそんなに大きくはないですが、特に隠れキリシタンの資料はやはり目を見張ります。

次は平塚市にある真土騒動の碑です。真土騒動は、明治11年(1878)10月27日の深夜、神奈川県大住郡真土村の地主松木町右衛門宅を質入主ら20名が襲撃した事件で、死者7名、負傷者4名を出しました。地租改正を機に質地の請戻しを願う質入主と松木家が対立した結果でした。江戸時代にも地主の家を襲撃して打ちこわす事件は数多く起きていますが、殺害まで起こるのは、ある意味、明治時代の特徴ともいえるでしょう。

「怨親を超えた人々の碑」という碑文に一つの悲しい歴史的事件を超えようという人々の気持ちが込められているようです。

お昼ごはんを食べた後は、伊勢原市にある「雨岳(うがく)文庫」を訪ねます。ここは伊勢原の豪農山口家の住宅を記念館というか、資料の公開を兼ねていますから「文庫」ですね。山口宅は、江戸時代の領主旗本の間部氏が、元治元年(1864)に地代官所として建てたものを住宅として改装したものだそうです。江戸時代は別のところにあったものを曳き屋したとのことですが、その間に明治になったとか…。国の有形登録文化財に指定されています。柱や梁が立派で、室内も意匠が凝らされていて、なかなか見所のある建物です。なお、このお宅は、東海大学が平塚にオープンした際に下宿として貸し出したそうで、あちらこちらの痛みのいくらかは、その当時の学生たちによるものだとか…。申し訳ない限りですm(_ _)m

「雨岳」は、山口家8代目の当主佐七郎の雅号で、伊勢原の大山が雨降山と呼ばれたことに由来しています。大山への参詣はこのサイトでもよく書いています。で、この佐七郎は、自由民権運動の結社「湘南社」の社長を務めた人物で、神奈川県内の民権家としてとみに有名です。

「自由は大山の麓より」の碑は、「自由は土佐の山間より」から来たものでしょう。なお、雨岳文庫には、こんなものもありました。

伊勢原市にある大山の二ノ鳥居の扁額「石尊大権現」です。関東大震災の際に落下し、さらにこれを移動しているときに割れてしまったのだとか。いい扁額なのに残念ですね。現在の二ノ鳥居には変額はかかっていません。

最後は、南足柄市に移動して、福澤神社にある文命の碑を見学に行きました。現地では、「南足柄市史」時代からの研究者仲間である関口さんが待っていて、解説をしてくれました。

下の写真でいいますと、真ん中が文命宮で、左右の石灯籠の後ろにあるのが文命の碑文です。向かって左側が古い碑文で、右側が新しい碑文だと考えられています。

話は宝永4年(1707)の富士山噴火に溯ります。これもこのサイトで何回か書いていますが、富士山の噴火では大量の砂が降ったことから河床が高くなり、大雨が降るたびに堤防が決壊するようになります。もっとも被害を受けたのが、下の写真の向こうにある酒匂川です。流路が変わるほどの被害を受けた酒匂川を復旧させるために、小田原藩領であった周辺の村々は幕府に上知されて、幕府の手で復旧がはかられますが、なかなかうまくいきません。最終的に復旧が成功するのは、享保の改革期になってのことです。蓑笠之助というちょっと冗談のような幕府代官によるものですが、その義父で川崎宿の名主であった田中丘隅という人物もその前に治水工事を行っており、丘隅がこの文命宮と碑文を建てます。文命は中国の治水の神さまと言われた禹王のことです。この禹王の祭礼を毎年4月1日行うことが命じられ、酒匂川の東堤の村々には100両が、西堤の村々には20両が将軍徳川吉宗から下賜されたとのことです。

左側の碑文にはこの100両の話が出てこないのに対して、右の碑文には出てくるので、左の碑文は一旦廃棄されたのではないかとのことでした。実はここを訪ねたのは、「南足柄市史」時代以来のことで、もう30年近く前のことになります。その頃は、雑然としていたのですが、あまりにきちんと整備されていたのに驚きました。聞けば、関口さんらが働きかけて整備し、最近市の文化財になったとか。そのことにも驚きました。こんな重要な遺跡なのに…。

それにしても関口さんといい、雨岳文庫の皆さんといい、その活動には頭が下がります。こうした郷土史家と呼ばれる方たちや、地元の教員の皆さんが地域の歴史を掘り起こし、守ってきたのです。関口さんの他にも南足柄市史の時代には、そうした人たちと一緒にやってきました。今は教員は多忙を極めていますし、郷土史、地域史を推進されてきた皆さんは、何れも高齢者の方々です。それ自体がすでに「歴史」になりつつあり、観光ばかりが重視される地域史の未来には暗澹たる想いを描かざるを得ません。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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