井伊直弼の背中…。

今日のつぶやき
井伊直弼の背中…。

ここのところ不安定な天候が続いていますね。私の故郷、福岡も大雨の被害にあったようです。台風ではない被害なんて、それでも記録にないような雨が降るなんて、不可思議な世の中です。米が実りの季節を迎えますから、とくにそうですが、今は、あまおうの苗が心配ですね。幸いなことに実家近辺も田畑も無事だったようですが、小さな川も溢れていたようですので、川沿いの地域が心配です。

それでも今日はいいお天気でした。さすが晴れ男と思いつつ、本日は、佛教大学院生の宮崎さんが上京されていたので、一緒に横浜めぐりです。まずは神奈川県立歴史博物館から。ついで横浜開港資料館です。神奈川県立歴史博物館では「北からの開国-海がまもり、海がつないだ日本-」、横浜開港資料館では「開港前後の横浜 村びとが見た1858~1860」が開催されています。

神奈川県立歴史博物館の特別展は、ロシアの南下と蝦夷地(北海道)について取り上げた展示でした。寛政(1789~1801)頃が中心になりますね。林子平の「海国兵談」から松平定信の寛政改革期の史料はもちろんのこと、この時期で考えられる所蔵者の史料が一堂に会していたのが興味深かったですね。

横浜開港資料館は、ここにある「和兵衛」と「おはま」がペリー来航から横浜開港あたりについて紹介するというスタイルを取っていました。「和兵衛」さんは「和平」なんでしょうね。横浜開港資料館は「偏差値展示」と呼ばれることがあるくらいちょっと難しいので有名ですが(^^;)今回はことさらわかりやすさに力を入れていましたね。今年、2019年は、横浜開港から160年、横浜市誕生から130年の年なんですね。2009年に、本学で神奈川県内の博物館や資料館、自治体編纂にかかわっている皆さんに声をかけて、横浜開港150年記念のシンポジウムを開催してからもう10年経つのかと、改めて時の流れの早さを感じています。

この展示では、中国とイギリス・フランスの戦争に関して、荷物運搬用に馬を輸出していたというのに驚きました。そしてその飼料として大豆も輸出されたとか。2009年のシンポジウムでは、相模平野から産出される小麦や大豆は、品質がよいことから、野田や銚子の醤油醸造に使われているとか、大豆がアロー戦争の際に輸出されていたとかの話題になっていました。それがここで繋がってきましたね、うん。

お昼は中華街へ。

中華街は「梅蘭」名物の焼きそばです。あんかけ焼きそばの片面を卵で揚げます。宮崎さんも喜んでくれたようで、ついでに餃子と焼売も頼んでしまいました。

こちらは、JR桜木町駅から紅葉坂を登った先、神奈川県立青少年センターにある神奈川奉行所跡の碑です。この一角には県立図書館もあります。以前、この図書館には「神奈川文化資料館」という施設があって、神奈川県史編纂時代の史料は、この文化資料館で公開されていました。現在は神奈川県立公文書館に移っています。その頃はよくこの紅葉坂をてくてくと通ったもののでした。みなとみらい地区に突然、ランドマークタワービルが出現したときは驚きましたね。しばらく通っていなかったものですから。

最後は、同じ一角にある掃部山公園へ。実は私、掃部山公園に行くのははじめてでした。あんだけ通っていたのに…(^^;)掃部山は、井伊掃部頭直弼にちなんだものです。日米修好通商条約に関しては、近年、井伊直弼の独断というよりも現場で交渉を担当した海防掛で下田奉行の井上清直と、同じ海防掛で目付の岩瀬忠震(ただなり)の両名が先んじたことが明らかになっていますが、直弼の役割が大きかったことに変わりはありません。掃部山は、この銅像を建てるために、一帯を彦根藩の旧家臣が買い取って整備したものだそうです。

ここ数日の天候の悪さとは打って変わって、夏の陽ざしが眩しくて、直弼の正面は逆光になってしまったようです。午前中に訪ねた方がいいですね。後ろ姿の方が陽が当ってきれいです。

銅像の完成した1909(明治42)年、まだ存命であった直弼の家臣たちが、その顔を見て、口々に「似ている」と言ったとか…。銅像は太平洋戦争の際に供出されたそうで、これは1954(昭和29)年に再建されたものだそうですが、やはりそっくりなのでしょうか?

直弼については再評価が必要だと思っていますが、どうのこうの言っても国事を担っていた背中です。直弼像が建造されてから今年で110年。その目の先にあるランドマークタワービルを、横浜の街を眺めながら、その背中は何を私たちに語りかけているのでしょうか…。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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