赤城の山も今宵を限り…

今日のつぶやき
赤城の山も今宵を限り…

「赤城の山も今宵を限り、生まれ故郷の国定の村や、縄張りを捨て、国(故郷)を捨て、可愛い子分のてめえ達とも 別れ別れになるかどで(首途)だ」は、幕末物の「月形半平太」と並ぶ行友李風(ゆきともりふう)作の任侠物の名作「国定忠治」の名セリフです。月形半平太が、福岡藩士の月形洗蔵と土佐藩士の武市半平太をモデルにしたと言われているのに対し、国定忠治は現在の群馬県赤城地方を根城にした実在の人物でした。どちらも新国劇の当り狂言で、新国劇創立者の澤田正二郎から辰巳柳太郎へと受け継がれていきます。その新国劇の流れを汲む劇団若獅子が国立大劇場で、「極付(きわめつけ)国定忠治」を通しで上演されたのは、2007年の春のことでした。主演の国定忠治は、劇団若獅子を主催されている笠原章さんが演じられ、緒形拳さんが敵役の山形屋でゲスト出演されていました。この山形屋とその子分達を鮮やかに切捨てる場面、「小松原の決闘」は、忠治の殺陣の最大の見せ場です。笠原さんの殺陣は本当に見事でした。北條美智留さんと緒形さんの楽屋を訪ねると、篠井英介さんや左とん平さん、竹野内豊さんらが次々に訪ねてこられて、さすがにちょっと緊張しましたね。

と言うことで、今日は群馬県の老神温泉に来ています。赤城山ずっぽしですね。ここに到着する前は、赤城神社にお詣りしてきました。そう、10月14日から本学で開催する「軌跡-名優緒形拳とその時代-」と、来年の秋、横浜市歴史博物館で開催する展示会の成功祈願です。これほどお願いするのに最適な神社はありませんよね。

さすがにパワーポット!赤城神社は大沼という沼のほとりに建っているのですが、標高は1000mを超えていて、霧がたっていました。神橋の向こうの山は幻想的です。で、ここで巫女さんに聞いたのですが、「赤城山」という単独の山はなくて、カルデラ湖であるこの大沼を取り囲む5つの山を総称して呼ぶのだそうですね。いや~恥ずかしながら存じませんでした(^^;)なお、この赤城神社は、もともと大洞というとことにあって、寛永19(1642)に建てられた社殿が老朽化して荒れ果てていたものを、1970(昭和45)年に現在の地に改築移築したものだとか。遷座するわけですから移築にあたってもかなりもめたと言われています。

赤城神社の前には、ちょっと前橋にも立ち寄ってきました。前橋城は、厩橋城(うまやばしじょう)とも呼ばれ、関東七名城に一つにも数えられたお城です。江戸時代後期の話になりますが、前橋城には、寛延2年(1749)、姫路に移封した酒井家に代わって、越前松平家が15万石で入城します。ところが、度重なる利根川の洪水の影響を受け、明和4年(1767)には、利根川の浸食で本丸御殿の一部が崩壊したことから、川越に城を移し、以後、前橋領8万石には陣屋が置かれます。松平氏川越藩の誕生!ということになるのですが、川越藩は、文化期(1804~1818)以来、三浦半島の警備をずっと任されますから、横須賀市史にとっては、あまりにも馴染み深い藩でした。もちろん、私も『新横須賀市史』の近世通史編を書くにあたって、いっぱい触れております。

この三浦半島警備は、藩財政の上でも大きな負担になっていたようです。で、横浜が開港すると、生糸が最大の輸出品になったことから、松平家は川越から前橋への転封、というより戻ることを画策します。上州の前橋といったら養蚕業で有名ですからね。それで慶応3年(1867)にようやく復帰が叶います。ですので、川越藩時代の古文書も現在は、前橋市立図書館に所蔵されています。で、今年の7月に川越をはじめて訪ね、今回はこれまたはじめて前橋を訪ねることができました。でも、前橋城の遺構は、前橋城以上に残っていませんでした。

こちらは「前橋城車橋門跡」です。これも市街地の整備にあたって現在地に移されたのだとか…。残された石垣に往時を偲びます。

あ、国定忠治のセリフですが「赤木の山も今宵限り」は間違いですからね。正確には「赤木の山も今宵を限り」と「を」を入れます。「今宵限り」では今夜でお仕舞いとなりますが、「今宵を限り」では今夜を一つの区切りとしてと言うことで、意味が変ってしまうのですよ。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

コメントを残す

コメントを残す

«
»
  • LINEで送る