江戸時代の東海道を通った外国人

今日のつぶやき
江戸時代の東海道を通った外国人

本日は横浜で、緒形拳さんの展示会について、神奈川芸術劇場、横浜市歴史博物館と打ち合わせでした。もちろん、幹太さんにハッピーさんもご一緒です。いろいろと詰めた話ができました。

んが、今は明後日の講演の準備で四苦八苦。藤澤浮世絵館の企画展「江ノ島を訪れたエトランジェ 描かれた異邦人」の記念講演会です。

で、私は何度も書いていますように「江戸時代の東海道を通った外国人 朝鮮通信使を中心に」という演題でやります。ただいま、レジュメとパワーポイントを作成していて、激ふん詰まり中です(^^;)いや~藤沢では過去2回、通信使についての講演をやっていますからねぇ。

でも、考えてみたら、東海道を通った外国人って、鎖国以前と鎖国中、そして開国後では違ってきますよね。鎖国以前だったら、代表的なのはウィリアム・アダムス、三浦按針ですね。彼、もちろん、東海道を通ったでしょ。で、鎖国中は、通信の国として朝鮮通信使。琉球は薩摩藩の付庸国にはなっていますが、一応独立した王朝で、通信の国でもあります。通商の国としてはオランダのカピタン(オランダ商館長)があります。朝鮮通信使が12回(内、1回は対馬まで)、琉球使節が18回に対してカピタンは166回ですからね。しかもカピタンは、オランダ人とは限りませんし、一緒にくっついて江戸参府した外国人もいます。長崎は出島の三大学者と言われるケンペル(ドイツ)、ツェンベリー(スウェーデン)、シーボルト(ドイツ) はそれぞれ旅行記を残していますから。ケンペルは元禄4年(1691)、ツェンベリーは安永4年(1775)~5年、シーボルトは文政9年(1826)と、17世紀、⒙世紀、19世紀と揃っています。ハリスなんか、ケンペルの記録をよく読んでいますからね。開国後には考古学者として有名なシュリーマンなんかも来訪して旅行記を残しています。どれもおもしろいんですよね。

もちろん、通信使の記録は大量に残っていて、重要文化財にも指定されましたよね。書記官だった申維翰(シシュハン)や金仁謙(キムインギョム)の記録は、前者が享保4年(1719)で、後者が明和元年(1764)の通信使の記録です。

それにこれらの行列をどう考えるか。近年は、幕末維新期の将軍や天皇の行列で、久住真也さんや佐々木克さんなどの、見せる、国事に奔走する将軍、天皇といったページェント論がさかんですが、その前に通信使やハリスの行列なんかを考えてみても面白い。ん…ますますまとまらなくなってきたので、今日はこの辺で(^^;)

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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