ハマの古文書講座 天狗党の乱と小田原藩

今日のつぶやき
ハマの古文書講座 天狗党の乱と小田原藩

日曜日に仕事をして、月曜日の授業の準備をすると、さすがに疲れてしまって、その日のうちにサイトを更新することは難しくなってしまいました。いや、本当に年ですねぇ(^^;)

ということで、改めて本日、ハマの古文書講座についてのご報告です。まぁ、普通に横浜で古文書講座をやったというだけですが…。旧知の小松さんが主催される古文書教室で、これまでは神奈川県立公文書館を使っていましたが、今年は、はじめて桜木町にあるぴおシティ6階の「青少年交流・活動支援スペース」といところの第1件研修室での講座でした。

このぴおシティは、市営地下鉄ブルーラインの桜木町駅とそのままつながっているのですね。で、そのままぴおシティへの階段を上ると…

昭和の地下飲み屋街の景色が広がっていて、日曜日の昼間っからお酒を飲んでいる方たちが多くて、何とも懐かしい雰囲気が広がっておりました。へーと思いつつ、6階へ。ここは青少年交流・活動支援スペースということですから、その名の通り、というか、高校生徒おぼしき年齢の子たちが教科書とか参考書を広げていました。その奥に第1研修室があります。

本日の古文書は、「吉岡由緒書」の中から「天狗党の乱」に関する部分をピックアップして読んでいきました。実は一昨年、同じく「吉岡由緒書」の中から小田原藩の京都警衛と禁門の変に関する部分を読んでいましたから、これは続編になります。「天狗党の乱」について『岩波日本史辞典』から引用しますと、

水戸藩尊攘激派の挙兵事件。水戸藩では下級藩士を中心として改革派が天狗党に集まり、保守派の諸生党と対立。元治元年 (1864)3月藤田小四郎らの激派は田丸稲之衛門を総帥として筑波山に挙兵し、藩の実権を握った諸生党と各地で戦った。榊原新左衛門一派や武田耕雲斎一派も合流したが敗北。耕雲斎を総大将とする激派は中山道から京都へ向かうも、12月越前で一橋慶喜の追討出陣を知って降伏。翌慶応元年2月武田・藤田・田丸ら352人が斬罪されるなど厳しい処分を受けた。

と記述してあります。私自身、天狗党の乱についてそれほど詳しくはないのですが、「吉岡由緒書」によれば、小田原藩は、禁門の変の後、一橋慶喜が追討出陣したのに応じて出陣を命じられ、越前まで約500人の兵を派遣します。何せ12月の越前です。1尺から4、5尺と言いますから、30cmから150cmにおよぶ雪の中を行軍して福井に向います。陣所は、最終的に、天狗党が陣を敷いた木ノ芽峠にほど近い葉原村(はんばらむら、福井県敦賀市)の左近五郎という家でした。葉原村はもともと宿場的な村であったとか。ただ、ここでは10畳の部屋に武器や具足を持ち込んで24、5人が詰め込まれたために大いに難儀し、末端の兵士は土間に藁を敷き、衾(ふすま)の代わりに藁を掛けて寒さを凌いだと書いています。ただでさえ小田原は比較的温暖な気候ですから、初めて経験する厳しい寒さだったようです。

「吉岡由緒書」には、加賀藩主に宛てた武田耕雲斎の嘆願書なども収録されていて興味深いです。ただし、この嘆願書、この内容では不充分だとして突き返され、再度提出していますが、残念ながら、再提出の嘆願書を読む時間はありませんでした。この嘆願書を活字にした史料はあるのでしょうか?あれば比べてみたいですね。

来月の10日は、神奈川県立公文書館の古文書講座応用編で、戊辰箱根戦争についての古文書を読みます。ここのところ、ひとり小田原藩幕末史状態です(^_^)v

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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