緒形拳 役者人生のスタートしての新国劇

今日のつぶやき
緒形拳 役者人生のスタートしての新国劇

ずいぶんと枯れ葉が落ちていますね。湘南キャンパスの中央通りの欅もだいぶ寂しくなってきました。私の研究室のある実験棟F館の前の通りはメタセコイアの落ち葉の絨毯です。こちらは昨日の写真ですが、今年も「地球防衛軍 落ち葉を吹き飛ばし隊」の皆さんが活躍する季節です(^^)

この時期は毎日のことですから、本当にたいへんですよね。

さて、「軌跡 名優緒形拳とその時代」も今日を入れて後、4日です。前回は展示のコンセプトのお話でしたので、本日は第1コーナーについての解説です。

Ⅰ.新国劇の舞台-役者人生のスタート-

 緒形さんの役者人生は、1958(昭和33)年に劇団新国劇へ入団したことからスタートします。新国劇の創設者澤田正二郎は、新たな国民劇の結成をめざして、1917(大正6)年に新国劇を結成しました。澤田は、民衆に寄り添いながらも民衆の半歩先を行く演劇をめざして「演劇半歩前進主義」を唱えます。新劇系の舞台も積極的に取り入れる一方、様式美の追求から形式的になってしまった歌舞伎の殺陣に対して、リアルさを追求し、「剣劇」という新たな分野を開拓します。”チャンバラ”という言葉も新国劇から始まりました。
 緒形が入団した頃の新国劇は、島田正吾辰巳柳太郎という二大スターを中心に時代劇から現代劇までを幅広く上演し、とくに男性に人気があったことから「男の劇団」と呼ばれていました。緒形は、新国劇の辰巳という役者に憧れ、辰巳が当り役としていた劇作家北條秀司作の「王将」に憧れたと語っています。その北條の口利きによって緒形の入団が叶います。初舞台は「無法松の一生」、1958年3月のことでした。1960年には、島田によって「遠い一つの道」「丹那隧道」という2つの演目の主役に大抜擢されたことで、一気に頭角を現していきます。緒形が本名の明伸から拳へと芸名を変えたのもこの頃のことでした。
 1968(昭和43)年、緒形は10年間在籍した新国劇を退団します。それは当時も大きなニュースとして取り上げられました。演劇のあり方が大きく変わっていこうとしていた時代でしたが、退団するまでに緒形が出演した舞台は、200近くにものぼります。まさに舞台づけの厳しい環境が、緒形の役者人生の基礎を形作ったことは言うまでもありません。晩年、緒形はそうした新国劇への熱い想いをことあるごとに語っていました。
 このコーナーでは、緒形の役者時代のスタートであった新国劇時代を振り返ります。また、もっとも思い入れの強い舞台「王将」については、新国劇退団後に演じたものも含めて特集しました。新国劇の舞台にかける緒形の青春時代の一コマをご覧ください。

王将について、別に小コーナーを設けて、特集しています。

北條秀司・緒形拳と「王将」
大阪の将棋棋士・坂田三吉の波瀾万丈に富む生涯を描いた「王将」は、劇作家・北條秀司が、新国劇の辰巳柳太郎のために書き下ろした戯曲です。1947(昭和22)年6月、有楽座で上演された初演では、三吉と関根金次郎との初対戦から妻・小春の死までを描いています。これが好評だったことから、1950(昭和25)年1月には、大阪歌舞伎座で、三吉の関西名人襲位から木村義雄、花田長太郎との対決までを描いた「続王将」が上演され、さらに同年12月には、京都南座で、三吉の死去までを描いた「王将 終篇」が上演されました。この3作は、後に「王将三部作」とされ、すべてを通した脚本を「王将一代」と称しています。
緒形は、1975(昭和50)年6月、東京銀座の三越劇場で、北條秀司劇作40周年記念公演として初めて坂田三吉役に挑戦し、翌1976(昭和51)年12月にも大阪三越劇場で同じ名目で公演しました。1977(昭和52)年から78年にかけては、全国78か所をまわって公演しています。さらに、1987(昭和62)年8月には、新橋演舞場の新国劇創立70周年記念公演でも三吉役を演じました。この公演で新国劇は、事実上の解散となりました。
王将」は、阪東妻三郎、勝新太郎、三國連太郎など多くの名優に愛され、映画・舞台・テレビなどで上演されました。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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