巣立っていく君へ 石を積むように…

今日のつぶやき
巣立っていく君へ 石を積むように…

 先ほど実家に帰る大学院生が挨拶に来ました。何日か前にも書きましたように、今年は卒業式はありません。当然、大学院生の修了式もありません。何だかかわいそうですね。でも、本当に彼女はよく頑張りました。卒論から修論でテーマを変えるのは大変なのですが、本当に一生懸命でした。

 贈る言葉…と言っても、改めても何ですから、以前、高校のPTA会長をやっていたときの挨拶文を載せておきます。ちょっとキザすぎるとは想っているのですが(^^;)やはり、この心境が今でも変わらぬ想いですし、巣立っていく大学院生、そしてゼミ生をはじめとした学生全員に贈りたいと思います。

 3年生の皆さん、卒業おめでとうございます。高いところからではございますが、保護者の皆さま、改めまして、お子様たちの卒業を心よりお祝い申し上げます。また、在学中は、PTA活動にご協力いただきまして、ありがとうございました。そして、先生方、3年間本当にお世話になりました。衷心より厚く御礼申し上げます。

 さて卒業生の皆さん、皆さんは平成19年4月の何日に入学したか覚えていますか?そう、4月の6日です。校門の前の桜は、少しずつ葉桜に変わってきていました。その日から今日、3月1日は、ちょうど1,060日目にあたります。そう、ぴったりです。これを単純に時間にしますと、2万5,440時間、分にすると152万6,400分、秒では9,158万4,000秒になります。まぁ、こう言ってもピンと来ないかも知れませんが、さて、皆さんにとって、この1日、1時間、1分、1秒は、どんな時間だったでしょうか?楽しかったですか?充実していましたか?思い残すことはありませんか?
 想い出は?と聞かれると、きっと体育祭や文化祭や修学旅行、あるいは部活動など、いろんな答えが返ってくることでしょう。でも、本当は、バカみたいなことを言っては笑いあった教室や、眠くて仕方がなかった授業、ふと見上げた四角い窓からのぞく青い空や雨の音、そんな何気ない日常が、実は何よりもかけがえのないものであったということを実感するには、もう少し時間が必要かも知れません。私は、この卒業式の後に行われる茶話会のために、皆さんの3年間の足跡をたどったスライドショーをつくり、1回限りの上映会をする予定になっていますが、入学時、はじめはぎこちなかった皆さんの笑顔が段々と打ち解けていって、そして満面の笑顔に変わっていくそのようすをみると、何だか心が和んで、そんな皆さんの明るい笑顔をみるたびに胸が熱くなってしまいました。レンズの向こうの皆さんは、確かに輝いていました。ですが一つ確かなことは、この当たり前であった日常や、風景や、場所が、明日からはもう違う世界の「想い出」になってしまうということです。

 でも、感傷に浸ってばかりはいられません。今日は皆さんに、ある1人の人物を紹介したいと思います。「宮本常一」という人です。民俗学者です。職業柄、紹介したい人物は山ほどいるのですが、この人が書いた『忘れられた日本人』という岩波文庫から出ている本は、人文科学の分野では、今でも名著として名高い本で、私もその大きな影響を受けた1人です。宮本常一という人は、「旅の民俗学者」と呼ばれるように、それこそ日本中をくまなく歩き回って、そこに息づく人々の暮らしや生き様を暖かな視線で書き綴った人でした。その宮本の著書に、講談社学術文庫の一冊として『庶民の発見』という本がありますが、私は、その中に出てくる「石工」の話にとても感銘を覚えたものでした。
 石工というのは石、ストーンの石ですね、これに大工の工、工業の工と書きます。早い話が、石垣を積む職人のことです。石垣を積むといっても御城の石垣のような立派なものではありません。田舎に行くと見かけるような、段々になった田んぼの石垣とか、家の石垣とか、そういった石を積む職人さんたちのことです。こうした石工たちは、「渡り」といって、旅の職人であることが多かったのです。

 宮本は、『庶民の発見』の中で、今の広島県は東広島市の西条というところで会った、渡りの石工たちのことについて書いています。それはちょうど石工たちが河原で作業をしているところでした。石工たちは川などで自然石を拾っては、それをタガネなどで割って石垣にするのです。宮本は、いつものように石工たちに声をかけます。「どんな案配だね」「ぼちぼちだよ」とそんな会話で始まる石工たちの言葉を宮本は、「いくつも私の心を打つものがあった」といって書き留めています。石工たちこんなことを言っていました。
 「石工という仕事はまぁ、銭が欲しゅうてやる仕事だが、決していい仕事ではない。とくに冬などに川の中でやる仕事は、寒くて冷たくて、泣くにも泣けないような辛いことがある。子供は石工にはしたくない。しかし、自分は生涯それで暮らしたいと思っている。」というのです。それはなぜか。石工たちは続けます。「田舎を歩いていて何でもない田んぼの岸などに、見事な石の積み方をしてあるのを見ると、心を打たれることがある。こんなところに石垣を築いた石工たちは、どんなつもりでこんなに心を込めた仕事をしたのだろう。村の人以外には誰も気に留める人もいないのに、どうしてこんなに心が込められるのだろう」と思うのだというのです。だから「この仕事をやっているとなぁ、やっぱりいい仕事がしたくなる。そしてそのことだけを考える。仕事が終われば、もうそれっきり、その土地とは縁も切れてしまう。が、いい仕事をしておくと楽しい。そうするとよ、後から来たものがほかの家の田の石垣を築く時、やっぱり粗末なことはできないもんだ。前に仕事に来たものがザツな仕事をしておくと、こちらもついザツな仕事をする。下請けの仕事であれば、経費の関係で手を抜くこともあるが、そんな仕事をすると大雨の降った時なんかは、石垣が崩れはせぬか、大丈夫かと夜も眠れぬことがある。やっぱりいい仕事をしておくのがいい。いい仕事をすれば、オレのやった仕事だ。少々の水や風なんかでも崩れるものかという自信が、雨の降るときには心からわいてくるもんだ。結局いい仕事をしておけば、それは自分ばかりでなく、後から来るものもその気持ちを受け継いでくれるものだ。」というのです。

 宮本は、「平凡だが、この人たちはこの人たちなりに一つの人生観を持っている。そしてそういうものが世の中を押し進めているのだと思った。積みあげられた石の一つ一つの中には、きっとそんな心がひそんでいるのであろう。」と書き留めています。

 自分がいい仕事をすれば、あとから来るものもその気持ちを受け継いでくれるもの。伝統とは本来そういうものかも知れません。そして何より、皆さんが過ごした1,060日、2万5000を超える時間というのは、まさにこれからのために、雨にも風にも負けないようなしっかりとした石垣を、一つ一つ心を込めて積み上げる時間、あるいは積み上げることの大切さそのものを知るための時間だったのかも知れません。どうでしょうか皆さん。立派な石垣は積めたでしょうか?

 でも、なぁに、そんなにあわてることもないのです。そうそう簡単に立派な石垣など、積めるものではありません。積んでは崩れ、崩れては積むような、そんな経験を皆さんはこれからいっぱいすることと思います。でも、決してあきらめないで下さい。できなければ、組み方を変えればいいのです。確かに世の中には、努力してできることとできないことがあります。そしてこれからの世の中は、みんなが感じているように信じられないような速度で変わっていくでしょう。でも、たとえ一つや二つ思い通りにならなくても、皆さんにはたくさんの可能性が残されています。人生の選択肢だって、まだたくさん残されています。変化は新たな可能性でもあります。私たちは、皆さんの可能性を信じています。皆さんがつくる未来を信じています。なぜなら、皆さんは、それにふさわしい時間をこの3年間過ごしてきたと信じるからです。

 私は、歴史という学問を教える立場にいる人間です。歴史を教えるとはどういうことかと問われれば、平凡ですが、私は、「人は宝なんだ」「時間は財産なんだ」ということを教えることに尽きる、と答えたいと思っています。「人は宝だ」といっても、別に坂本龍馬が日本の宝だとか、誰々が日本をつくっただとかそんなことをいうつもりは毛頭ありません。福山雅治さんの龍馬は確かにかっこいいですけどね。

 先の石工たちがそうであるように、その時代時代を懸命に生きた人たちは、何らかの形でその時代をつくり上げている。宮本が言うように、むしろ、そうした生きた哲学こそが社会をつくり、世の中を押し進めているのだということを、私たちはもっともっと自覚していいと思います。私たちの周りにはそうした生きた学問がたくさんあります。だから、偉人たちより何より、同じ時代を過ごした人すべては、皆さんにとって友とも、師となり得るものなのです。

 あなたの右隣を、左隣を見てください。前に座っている人、後ろに座っている人はどんな人でしょうか。親しいとか親しくないとかそんなことは関係ないのです。この3年間一緒に学んできたこの仲間たち、そのすべてが皆さんにとっての財産なのです。この3年間が楽しかったと胸を張れるならば、その時間こそが宝なのです。もちろん、楽しいことばかりではなかったかも知れません。辛いことも、悲しいことも、苦しいこともたくさんあったかも知れません。でも、それもこれも全部ひっくるめて引き受けて下さい。それもこれをすべてひっくるめてこその「今」なのです。

 それを自覚した時、人はそれを「誇り」と呼びます。 誇りを持って生きている人間は、ちょっとやそっとのことではあきらめないものです。どんな困難にも負けずにまっすぐに生きていけるものです。厚木高校で学んだ日々は、その時間は、この仲間たちは、だからきっとこれからの皆さんの「原点」になると思います。誇りになると思います。だから、その誇りを決して忘れずに、次のステージへ飛び立って下さい。そしていつの日か、きっと自信を持って言えるようになって欲しいと願います。オレが、私が積んだ石垣は、大雨が降ろうが、大風が吹こうが決して崩れないと。この1,060日はそれだけ大切な時間だったのです。だからこそ、もう一度言わせて下さい。卒業おめでとう。

  平成22年3月1日      PTA会長 馬場 弘臣

 実は『庶民の発見』の中の石工の話は少し脚色しています(^^;)一応、挨拶文として伝わりやすいように補ったりもしていますが、引用部分をはじめとして柱は当然のことながらそのままです。

 それにしてももう10年も経つのですね。月日が経つのは早いものです。でも、私にとっては変わらぬ想いです。ここは高校生ですが、学部生であれば4年、修士課程の大学院生であれば6年に置き換えれば、本当に変わらぬ想いを届けたいと思います。

 今日は天気が良くて、研究室の窓の外の風景も美しく閑かです。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

『巣立っていく君へ 石を積むように…』に2件のコメント

  1. M iho より:

    高校の卒業式だけでなく、中学校、小学校も感動的な別れの言葉を用意することもできないままの卒業式となります。せめてこの送る言葉が、たくさんの人に届くいいですね。

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