ガタ(拳)は反逆の愛児

今日のつぶやき
ガタ(拳)は反逆の愛児

とりあえず、今日の卒論Zoom面談授業は終了しました。もう個別に対応する段階になっているので、全体授業より、個別に対応することを優先することにしました。

先週はまたずっと緒形さんの資料の整理です。ようやく蔵書の入力作業が終わりました。全部で何冊になったかは、すべてのファイルを合算してから報告しましょう。3000冊 は優に超えているというのはすでにお知らせしたとおりです。現在は、新国劇時代の写真を整理しています。

改めて新国劇というのは、1917(大正6)年4月に、澤田正二郎が結成した劇団です。澤田は、歌舞伎と新劇の中間をゆく大衆性のある国民演劇の樹立を目指し、「民衆と握手せよ、而して片足のみは不断に民衆より半歩を進めよ」と「演劇半歩主義」を主張しました。「国定忠治」などの当たり役で、迫真的な立ち回りを演じる剣劇を創案してます。「チャンバラ」の語源は新国劇にあったと、これも以前書いたとおりです。

ただ、1929(昭和4)年3月に澤田が急逝すると危機に陥るのですが、性格から芸風まで対照的な島田正吾と辰巳柳太郎の抜擢が功を奏して人気を呼び、引き続き演劇界に確固たる地位を占めていきました。戦後は、北條秀司作「王将」「霧の音」などの名作を得て人気を保ってきたものの、1970年代頃から、大幹部の島田・辰巳の高齢化、緒形さんら若手の脱退で衰退にむかい、1987(昭和62)年8月、新橋演舞場での劇団創立70周年記念公演を最後に解散しました。

下の書は、この島田正吾の手によるものです。

島田は、1905(明治38)年12月13日に神奈川県横浜市で生まれました。本名は服部喜久太郎で、1923(大正12)年新国劇に入団しています。知性派、努力型の俳優で、役の把握と表現に際しては、徹底的な追求を惜しまぬ一方、常に石橋を叩いて渡る式の堅実な芸風を持つといわれました。北條は「万年雪のごとき役者」と評しています。

また、辰巳は、1905(明治38)年4月20日、兵庫県赤穂市生まれで、本名を新倉武一といいます。新国劇への入団は、1927(昭和2)年でした。天衣無縫で野性的な芸風を持つといわれ、北條は「客気と臭気に満ちた無頼漢的俳優である。作家と見れば噛みついて、これを征服しようとする。負けず嫌いな私にとって、正に得難き好敵手だった」と評しています。この辰巳の「王将」に憧れて、緒形さんは新国劇に入団したのでした。

その島田さんによれば、辰巳は役者の申し子で、自分はただの努力の人、緒形(ガタ)は反逆の愛児と書いています。1968(昭和43)年に新国劇を脱退した緒形さんは、師匠の島田さんによれば、反逆児であるが、かけがえのない「愛児」だったのですね。それは晩年の交流でも分ります。

また、緒形さんは、辰巳さんからは「役者の心」を学び、島田さんからは「役者の技」を学んだと書き留めています。時代が両者を分けたこともありましたが、緒形さんにとって、二人が「役者」の師匠であったことには終生変わりはありませんでした。

緒形さんが新国劇と和解し、再び同じ舞台に立ったのが1979(昭和54)年のことで、4月に新橋演舞場で行なわれた公演では、ゲストとして北條秀司作「祭りの笛」で主演を務め、辰巳柳太郎主演「極付 国定忠治」では敵役の山形屋藤造を、島田正吾主演「白い影」では平田信夫、大山克巳主演「関の弥太っぺ」では箱田の森介役で出演しています。「澤田正二郎五十年祭」と銘打った興行でしたが、この年、新国劇は会社としては倒産の憂き目にあいます。

それから8年後の1987(昭和62)年8月、名古屋の御園座と東京の新橋演舞場で行なわれた公演で緒形さんは、新国劇では初めて「王将」の坂田三吉役を演じます。それが新国劇の事実上の解散公演となりました。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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