10年の重み…

今日のつぶやき
10年の重み…

言わずもがなですが、今日は東日本大震災からちょうど10年になります。twitterなどのSNSでもいろんな方が当時のことを語っていらっしゃいます。

ここで何度も書いていますが、神奈川に住んでいる私ですが、当日は福岡の実家に帰っていて、激震の体験がありません。そのかわり、テレビでずっと地震から津波、そして福島原子力発電所の水蒸気爆発まで見ていました。

あまり知られていないでしょうが、その時間にはちょうどお昼のワイドショーで、コント55号で萩本欽一さんの相方をやっていた坂上二郎さんの死去のニュースをずっと伝えていたところでした。それが突然、地震警報に変わって、後は地震後の津波とその被害の実況中継です。名取川の河口から波が溯って次第に溢れていって住宅地を呑み込んでいく状況、逃げる車。整地された畑も作物が実った畑もビニールハウスも一気に飲み込んでいく津波。NHKのアナウンサーが「逃げてください、とにかく逃げてください。高台へ逃げてください」と叫ぶように呼びかけていたのも印象的でした。

陸前高田では白砂青松と呼ばれた松原が一気に飲み込まれていきました。燃えるコンビナート、焼ける気仙沼。関東も例外ではありません。何より恐ろしかったのは、津波警報が日本をぐるっと囲んで沖縄まで達していることでした。そして東北から茨城あたりまでまさにその通りになって行ったのです。

そして福島原子力発電所ではすべての電源が切れたというニュースが流れたかと思ったら、突然、ボッといって白い煙が上がりました。ニュースでは、「水蒸気爆発でしょうか」とアナウンスされていました。生中継だったのですが、その後、正面から見たこの様子をテレビで放送することはなかったように思います。

この時の帰省は、熊本にあるTSIC東海大学宇宙情報センターに学園史資料センターの保管庫があって、その整理のために出張した帰りでした。当日の朝、電車に乗るために熊本駅に行くと、九州新幹線の開通式を翌日に控える垂れ幕が下がっていて、何だが華やかな雰囲気でした。「いよいよ開通なんですね」と女性の駅員さんに声をかけたら「はい!」とすごく嬉しそうな笑顔を返してくれたことが忘れられません。

当時の日記を紐解いてみると

3月11日(金):三陸沖でマグニチュード8.8の大地震。東北から関東にかけての太平洋岸で10メートルを越す大津波。仙台の名取川下流10キロメートルにおよぶ大津波をリアルタイムで見ていて驚愕する。東京ではすべての交通機関が麻痺して帰宅難民。学園史資料センターでも小田急組が帰れず。電話をかけるがなかなかつながらず、午後8時を過ぎてようやくつながる。みんな無事。

3月12日(土):東北関東大地震は、一夜明けたらその惨状に目を覆いたくなった。陸前高田市など海岸端の多くの市町が壊滅的被害。震度はマグニチュード9.0に変更。日本で最大級の地震とのこと。福島原発が大きな被害。みんなとりあえず無事に帰宅。

3月13日(日):東北関東大地震はさらにひどくなる。原発の状況も刻々とひどくなっていく。

3月14日(月):電力が不足するというので、今日から計画停電が始まるが、おかげで電車があちらこちらで止まって、交通は大混雑。無事に帰れるだろうかと心配。だが、飛行機は何事なく飛び、本厚木駅行きのリムジンバスも最後の方の切符をゲットし、帰りの高速や一般道もすいすい行けて何事なく帰る。

帰ることができたのは3日後でした。ジャンボジェット機でしたからよけいガラガラの機内が印象的でした。

何ができるんだろうと思っていたら、その年は甲状腺眼症という病気にかかって5月に3週間入院、8月に手術、翌年2月に再手術で、3月に1年ぶりに実家に帰るも、その年の9月に父は亡くなってしまいました。

本学文明研究所の兼任所員として、「震災復興と文明」というプロジェクトに参加したのが2014年で、元禄16年(1703)の関東大地震と宝永4年(1707)の富士山噴火についての研究を本格的に開始しました。その一環として仙台空港から名取市、陸前高田市を廻ったのが翌2015年3月。震災から4年が経っていました。さらに翌2016年には宮古から久慈まで三陸鉄道に乗ってみました。この年はどうしても田老地区のスーパー堤防を見たかったのです。

東日本大震災については、体験もしていないのに書くことが多すぎて…。切りがありませんので、視察の際の写真を何枚か紹介します。これまで何度も紹介してきましたので、今回は紹介してこなかったものを。

仙台空港の周りも一面の草原になっていたのですが、下増田神社という小さな神社がポツンと残っていて、そのとなりにみなさんの願いや思いを書いた看板が立っていました。

名取地区の震災の碑のとなりに残っていた「佐々直」という土産物屋さんです。これはもう昨年でしたか、撤去されたとのことです。

陸前高田では一本松が有名で、このサイトでも紹介しましたが、こちらは近所にある「道の駅 高田松原」です。また、この前には記念碑が建てられています。

花束の数がもの凄かったのも印象的でした。

一の渡という駅で宮古行きと久慈行きの列車が隣り合わせた場面です。

田老のスーパー堤防では、当時の説明会みたいなものが行われいました。ここには写っていませんが、画面の右奥にはテレビクルーが来ていました。手前の新しい堤防とかさ上げと整地の進む堤防ないと右側の壊れた堤防、その先の工事の風景が印象的です。

あの当時はどこへ行ってもまだまだ工事の真っ最中でしたが、今はどうなっているのでしょうか。コロナ禍がおさまったら、ぜひとも訪ねたいと思います。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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