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2022年元旦三社巡り

皆さま、明けましておめでとうございます。本年が皆さまにとって佳き年でありますようにお祈り申し上げます。

①子之神神社

さて、我が家では毎年恒例の如く、紅白歌合戦を観た後は、近所の子之神神社(ねのかみじんじゃ)に初詣に行きます。当然、年が明けてからです。今年はかみさんと下の娘と3人で!

私が住んでいる厚木市の戸室は、江戸時代の戸室村でした。現在の自治体は、江戸時代の村が合併をくり返して成立していますから、普通、市や町や村の後につづく最後の地名がだいたいは江戸時代の村ということになります。もっともずいぶんと地名が変わったところもあります。「緑が丘」とか「希望ヶ丘」とかはまず違いますね。江戸時代には「丘」の字は地名では使わないですしね。

村の中心となる神社は、①鎮守(ちんじゅ)様、②氏神(うじがみ)様、③産土神(うぶすながみ)様の三位一体になります。子之神神社もそうなります。そんな大きな神社ではないですが、毎年、境内を掘ってたき火を焚いてくれます。この周りを回りながら拝殿まで行って、お参りをするのです。結構、暖かいですよ。

やはり1番最初はその土地の神さまにお参りするのが何よりですよね。お願いごとは…秘密。いつも通りお参りした後は、鎌倉の銭洗弁天で洗ってお祈りをしてきた5円玉が入った「開運」の袋をいただき、おみくじを引いて帰ります。おみくじは昨年に引き続いて今年も「大吉」でした(^_^)v

②厚木神社

夜が明けて、おせちを食べたら、東京に帰る娘を駅まで送っていき、近くの神社にお参りをしてきました。

厚木の川沿いにある「厚木神社」です。あまり大きくはありませんが、厚木では1番大きな神社になります。江戸時代までは牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と称して、厚木村の鎮守でした。明治6年(1873)に熊野神社と船喜多神社を合祀して厚木神社と改称したそうです。もっとも熊野神社も船喜多神社も後に再建されています。

厚木神社は、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で崩壊した後に建て替えられて現在にいたっています。先にも書きましたように旧称は牛頭天王社ですから、普段はお天王さんとも呼ばれています。そして厚木のお天王さんと言えば、毎年、7月のお祭りは、神輿も出て盛大に行なわれます。とくに江戸時代の史料を見てみると、地域でも大きな神社で、祭礼の際には近辺からたくさんの人が参拝に訪れて賑わっていたことがわかります。だから、今でもこれだけ参拝があるのですね。

こちらは大震災の後、昭和2年(1927)に厚木神社が再建されている時の写真です。これが今の本殿と拝殿になって続いています。

さらに厚木神社の歴史を示すように、境内にはいろんな石碑が建っています。右上は戦争で亡くなった方々の魂を沈める忠魂碑です。この忠魂碑の右下には、明治10年(1877)の西南戦争で亡くなった人々を祀った忠魂碑です。旧厚木村からも西南戦争に参加した方が数名いたのです。

もう一つ、こんな石碑も建っています。

下野国(しもつけのくに)烏山藩(からすやまはん)厚木役所跡の碑です。下野国烏山藩は現在の栃木県烏山市に本拠を置く3万石の藩でした。厚木役所は、いわゆる烏山藩の飛び地領の陣屋ですね。烏山藩厚木役所は、藩主大久保常春の代、享保13年(1728)頃に設置されたと言われています。烏山藩の飛び地は厚木周辺に1万石余りあります。1万石あれば大名ですから、さながら厚木役所は「厚木藩」を管轄する役所くらいの意義を持っていたわけですね。なにせ烏山藩領の3分の1は相模国に領地があったのですから。

参考までにこちらが烏山藩の相模国内飛び地領を図示したものです。厚木には相模川唯一ともいえる河岸(かし)があって(『新編相模国風土記稿)』)、それはそれは賑わっていました。いわゆる在郷町だったのですね。在郷町は、在方町とも言って、行政上は「村」として把握されているのだけれど、商業的に発展して町場化した場所のことを言います。厚木を訪れた三河国田原藩士で、洋学者、画家として有名な渡辺崋山(1793~1841)が厚木を訪れた際に「その賑わいは江戸と変わることがない」と述べています(渡辺崋山「游相日記(ゆうしょうにっき」)。だからといって厚木を「小江戸」と呼ぶのは少々勇み足だと思いますがね。

ところで烏山藩大久保家は、小田原藩大久保家の分家にあたる家柄です。小田原藩の分家としては、厚木市内の荻野地区に「荻野山中藩(おぎのやまなかはん」)1万3000石がありました。もっともその内、相模国内の領地は5000石程でしたから、烏山藩の飛び地領の方がよっぽど多いんですよね。

小田原藩に関係していますので、つい話が長くなりました(^^;)いずれにしても厚木は、相模川の水運と内陸部を結ぶ拠点として栄えていましたから、そもそも江戸時代後期に農村荒廃で苦しい烏山の本拠よりよっぽど実入りがよいのです。

そうしたら右上と右下の写真にあるように、相模川で船を漕いでいる方がいらっしゃいました。川を上っているわけですからたいへんかと思いますが、右下の写真ではまさに川底に棹を差して船を進めていらっしゃいました。江戸時代はこうしてたくさんの船がこの厚木神社の裏を行き来していたわけです。

またまた参考までにこちらは『相中留恩紀略』という史料に描かれた厚木陣屋周辺の図です。

天王社とあるのが厚木神社で、その左側に厚木陣屋が描かれています。街道の風景を見ても軒を連ねた家並みが見てとれますね。相模川には3艘ほど船が描かれています。ちなみに溝呂木孫右衛門(みぞろぎまごえもん)宅とあるのは、厚木の渡船場を仕切っていた家でした。相模川には橋が架かっていませんから、渡し船で渡ります。その中でももっとも大きいのが東海道の馬入(ばにゅう)の渡しで、2番目がこの厚木の渡しなのです。江戸から厚木の渡しを渡る旅人の目的のひとつは、大山(伊勢原市)参詣でした。

こちらは厚木の渡しの記念碑です。ここには「渡辺崋山来遊記念碑」も建てられています。ここが渡船場だったわけですが、裏の相模川に出てみると、先ほどの船頭さんが、ちょうど渡船場の対岸に船を止めていらっしゃいました。まさに現代における渡船場の風景ですね。江戸時代の専門家である私にとっては、正月早々胸躍る風景です。とにかく天気がよくて蒼天の空に相模川の川面(かわも)の青がまたよく似合うのです。

③船喜多神社

三社巡りの最後を締めますのは、『相中留恩紀略』にも描かれていた「船貴多神社」です。

船喜多神社は、江戸時代以前、船田郷の鎮守で、江戸時代には厚木村の総鎮守とされていたそうです。明治6年(1873)には厚木神社に合祀されたそうですが、同25年(1892)に再建されたと言います。こちらも今はこぢんまりとした神社で、お参りに行ったときには人影もありませんでした。ただ、昨夜の松明(たいまつ)やテントの後がありましたので、子之神神社と同じように、年を越えた時間帯には近所の人たちがお参りに来たのでしょう。

こうして2022年の市内三社巡りは終わりました。

最後に大晦日の宣言通り、今年の目標を。といっても大それたことはないですね。昨年、野の花出版社で史料集の『幕末風聞集 増補改訂版』と、教科書『江戸学と現代社会』を刊行しました。今年はぜひオリジナルなものをということで、とにかく「吉岡由緒書」を翻刻します。クラウドファンディングからもう5年になりますからね、何としてもやり遂げなければと思います。そしてもう1冊、富士山噴火の復興過程を年貢量と俸禄米で追った研究(東海大学文明研究所『文明』19号・21号・23号所収)を1冊の本にまとめ直すことです。これは研究書として出したいと思っています。

その他研究としては、査読論文を1本投稿したいと思っています。幕府への時献上に関するものです。まだ詳細はこれからです。

と、後は特にないですが、とにかく帰郷して母に会いたいです。これは目標と言うより願いですね。春には帰れるでしょうか?オミクロン株が段々と増えてきて、何だか不気味です。

その意味でも退職まで後2年、健康で元気に過ごしたいと思います。さらに、そのためにもす少しダイエットをめざしたいなと思っています(^^;)とりあえず、6月をメドに10Kg落とせたらと思っています。

ということで、今年も精一杯頑張って行きます。このサイトも日々精進です。

皆さま本年もどうぞよろしくお願い申し上げますm(_ _)m

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
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