播磨国明石城もまた要害の地

今日のつぶやき
播磨国明石城もまた要害の地

この6日と7日、兵庫県から岡山県への旅に行って参りました。6日は兵庫県の明石城を訪ねること、7日は備前長船刀剣博物館を訪ねることが目的です。もちろん、それだけでは時間があまりますので、それ以外も成行きに任せて訪ねてみました。

播磨国(兵庫県)明石城を訪ねたのは、4月に肥前国唐津城(佐賀県)を訪れたことの続きです。そこではこんなことを書いていました。

小田原藩主の大久保家は、2代忠隣(ただちか)の代、慶長19年(1614)に改易となりますが、孫の忠職(ただもと)が武蔵国騎西(埼玉県加須市)2万石の藩主として大久保家の家名を継ぐことを許されます。ただし、忠職自身は蟄居の身だったのですが、寛永2年(1625)に罪を許され、同9年(1642)には3万石を加増され、美濃加納藩(岐阜県岐阜市)5万石に移封されます。さらに同16年(1639)にも2万石加増の上、播磨国明石藩(兵庫県明石市)7万石に移封されます。ここで現在刊行をめざしている「吉岡由緒書」吉岡家の初代実疑(さねよし)が仕官したのでした。忠職はさらに慶安2年(1649)に1万8000石加増されて、肥前唐津藩8万3000石に移封されます。

唐津城は絶景の地なり!

次の刊行をめざしてただいま最終校正中の『吉岡由緒書』に関連した旅でした。唐津城の次に移封されたのが佐倉城で、この1日にはその佐倉城を訪ねたのは既報の通りです。

下総国佐倉城

佐倉城は当時、老中就任者が在城する城で、忠職の跡を継いだ忠朝が延宝6年(1678)に肥前国唐津から移封となったのでした。順番からすると、播磨国明石→肥前国唐津→下総国佐倉の順番なのですが、唐津→佐倉と来て、明石が最後になりました。いずれにしても、吉岡家に関係する城はこれですべてまわったことになります。

明石城は残念ながら基本的に坤(ひつじさる)櫓(向かって左)と巽(たつみ)櫓(同右)の2つしか残っていません。天守台はありますが、天守は造営されなかったとのこと。城の内部はやはり公園になっています。ただし、この2つの櫓はどちらも重要文化財に指定されています!

石垣もまた見事です。また、坤櫓と巽櫓はいずれも三重の櫓ですが、向きが違っています。造りも違っていて、それぞれに趣のある櫓ですね。

唐津城は松浦川が唐津湾に流れ込む要害の城だと書きましたが、明石城もまた、城の正面で西国街道(山陽道)に面し、明石海峡を望む瀬戸内海有数の水陸両方にかかわる要害の地でした。それは小田原城とも通じるところがあります。現地を見てはっきりとそれを自覚することができました。

こちらは明石城址から明石海峡大橋を見たところです。唐津城のように眼下というわけにはいきませんが、それでも要衝地であることを実感できます。

さて、当日はこのあと備前一宮の吉備津彦神社と備中一宮吉備津神社に参拝したのですが、今日のことも含めて長くなりそうなので、追い追いと書いていきたいと思います。引き続きよろしくお願いします。

それにしてもクラウドファンディングからすでに5年が経とうとしています。『吉岡由緒書』の刊行も急がなければなりません。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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