お母さんと川へ洗濯に…。3回目の月命日

今日のつぶやき
お母さんと川へ洗濯に…。3回目の月命日

桃太郎のお話では、おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きます。山へ柴刈りといっても、何をしに行くのか今の若い人ではきっとわからないでしょうし、ましてや川で洗濯などは想像もつかないかと思います。そもそもテレビアニメの「日本昔ばなし」が終了してからは、桃太郎のお話も詳しい内容は、もはやわからなくなってしまっているかも知れません。

何でそんな話を…と思われるかも知れませんが、私にとって川で洗濯は昔ばなしの世界ではないからです。

この写真は母のアルバムに貼ってあったのを覚えていて、母の四十九日で帰郷した際に確認しました。その後、姪っ子から送ってもらったのですが、改めてみると「昭和38年2月思い出」とあります。西暦だと1963年ですか。母と私と、母におんぶされているのは3歳下の妹です。私が4歳の時です。今はブロックになっている塀も当時は生け垣です。右側に止まっている車はミゼットという三輪の自動車です。小学校の頃までは、この車で親子4人で母の実家に行ったりしていました。もちろん交通違反です。時効ということで…(^^)私は母の足元に隠れていましたから、夏などは本当に暑かったことを覚えています。ところで、生け垣の向こうの藁で作った物はいったい何だったのでしょうか?

母が持っている竹の籠には洗濯物が入っています。私の生まれ故郷、八女郡広川町は竹製品が名産でもありました。この写真は母と一緒に川へ洗濯に行くところです。歩いて10分ほどでしょうか?小さな小川でした。石段を降りていきます。ここではその後、田植え機で苗を植える際の育苗箱を洗うようになります。私も何度が洗った覚えがあります。なにせ、各家には内風呂もなかった時代で、私の家も小学校の頃までは共同風呂に入っていましたし、中学校の頃は向かいの親戚の床屋でもらい湯をしていました。まぁ~貧乏な暮らしですね。

台所にしても当時は土間でした。井戸から手押しポンプで汲み上げて、かまどで炊きます。手押しポンプは「となりのトトロ」なんかでご存じの方も多いかと思います。調べてみたら今でもAmazonで売っていました(゚ロ゚)

そんな暮らしでしたから母の手はアカギレが絶えなくて、いつも血が滲んでいたのを覚えています。とにかく私はそんな母が大好き大好きで、雨が降るときにはいつも母にまとわりついていました。

こちらは昔懐かしい足踏み式のミシンです。忍野八海の資料館で撮ってきました。足踏み式のミシンは我が家にもあって、雨の日は日がな一日、母がこれで縫い物をしていました。その周りを妹とまとわりついていたことをやはり覚えています。雨の日が楽しみでもありました。

それも小学校6年生ですから昭和45(1970)年のことになりますか?我が家で苺の栽培を始めましたから、ハウスがあれば雨でも作業ができるようになります。苺はぶどうとは違って1回きりの収穫ではなく、早ければ11月の末から5月までは収穫することができます。そのおかげで私も進学できたようなものですが、それ以前、冬になると母は近くの製紙工場に働きに行っていました。苺を栽培するようになっても高菜を始め、ホウレンソウや白菜、ニガウリ、タマネギなど野菜の栽培は、合間を見つけて母が一人でやっていました。俗な言い方ですが、本当に働き者の母でした。

告別式の時に孫4人が母に向かって話しかけるという場面がありました。その時、下の娘が「おばあちゃんは私たちが帰るとき、車が見えなくなるまでずっとずっと手を振ってくれたよね」という話をしてくれました。あぁそうだったと思い出してはグッときてしまいました。私たちが来るのを父と一緒に誰よりも待ってくれていたのですね。

母は久留米絣のモンペに地下足袋、父も作業着に地下足袋。これはきっとうちの納屋の前ですね。向かって左側は馬小屋だと思います。小学校に上がる頃まで実家では馬を飼っていました。それにしても、3人で撮った1番古い写真なのに、私はどうも大泣きしているようです。

今日はそんな母の3回目の月命日。お母さん、10年間待っていたお父さんと今、何を話していますか?こんな昔のことも話しているのでしょうか?薄い蒲団にすきま風の吹き込む寒い家でしたが、今思えば私たちは毎日が楽しくて、とってもとっても幸せな日々でしたよ。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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