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岩瀬忠震の軸

昨日の続きです。まずはお詫びです。お店の名前を間違えてしまいました。相模大野にある京懐石のお店「りほう」(http://www.rihou.com/)でした。たいへん失礼いたしました。「りほう」はとても有名はお店なのですね。まったく知らなくて、お恥ずかしい次第です。

さて、「待光庵」で見せていただいたのは、水野忠徳(ただのり)、小栗忠順(ただのぶ)とならぶ幕臣で、幕末三傑の一人と称された岩瀬忠震(ただなり)の軸でした。岩瀬は通称を修理、雅号を蟾洲(せんしゅう)、百里・鴎処(おうしょ)と号し、伊賀守、後に肥後守を名乗ります。旗本の設楽貞丈(しだらさだとも)の三男に産まれ、同じ旗本の岩瀬忠正の養子となります。忠震は、家督を継ぐ以前から登用され、開国・通商への道を推進していくことになります。安政元年(1854)には目付に昇進し、海防掛(かいぼうがかり)等を兼任します。忠震といえば、とくにハリスとの日米修好通商条約調印に尽力し、勅許を得るために老中堀田正睦(まさよし)らとともに京都に行きますが、承認を得られないままに全権として条約に調印します。将軍継嗣問題では、一橋派に属したために、安政五カ国条約を調印した後、大老井伊直弼により職を解かれ、差控(さしひかえ)を命じられました。将軍継嗣問題は、ユニコムプラザさがみはらでの古文書講座で扱ったことは、先にも書いたとおりです(http://www.ihmlab.net/tweet/tweetblog/6329/)。

それにしてもなんたる偶然!許可を得まして、ここに写真を掲載させていただきます。かきつばたを描いた書画の方には「辛酉春晩」とあります。辛酉は文久元年(1861)で、この年の7月11日に忠震は亡くなります。箱のメモにも書いてありましたが、確かにこの軸2幅は岩瀬の絶筆に近いのは間違いないでしょう。2幅の軸には「鴎所」の銘があります。

書の方は「梅子雨来 梅子熟 杜鵑花開 杜鵑啼」とあります。「梅雨が来て、梅の実が熟し、杜鵑花(とけんか)の花が開き、杜鵑(とけん)が啼く」という意味です。杜鵑花はサキツツジの別称で、杜鵑はほととぎすのことです。ここで「杜鵑」の文字が重なっているのが粋なのでしょう。でも、何だか孤独を感じる詩です。また、忠震の文字はきちんとしていて、実直な性格だったのだろうなと感じさせます。いい字です。

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投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
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