蛤御門の変と小田原藩

今日のつぶやき
蛤御門の変と小田原藩

既報の通り、明日、神奈川県立公文書館で「古文書を読む会」がありまして、今回は、クラウドファンディングの対象となっている「吉岡由緒書」を読んでみます。幕府は、文久3年(1863)5月、将軍徳川家茂が上洛してから、京都御所の守衛を目的に、10万石以上の大名に対して、1万石につく1人ずつの割合で御親兵派遣を命じています。小田原藩では有浦元右衛門を御番頭代(おばんがしらだい)として、10名が任命されています。京都では、同年8月18日に、強硬な攘夷派であった長州藩と、三条実美ら攘夷派の公卿7名が京都から追放されるクーデターが勃発します。いわゆる文久三年八月十八日の政変です。そして、翌元治元年(1864)6月5日、長州藩は、池田屋事件を契機として、覇権を奪回すべく、京都に向けて兵を派遣したのでした。こうした動きに対して幕府では、上洛していた将軍家茂にかわって一橋慶喜が、諸大名に江戸および京都への警衛目的の出兵を命じていました。小田原藩にも7月から3か月間の京都警衛が命じられます。小田原藩主大久保忠礼は、総人数1,058名の藩士を従え、6月10日に小田原を出立すると、23日に京都に到着し、寺町通三条下ルの誓願寺を本陣としました。つまり、7月に起こった蛤御門の変の際に小田原藩は、藩主自らが、京都守衛のために上洛していたのでした。吉岡家では、信徳がこの出兵に付き従っていました。

下の図は、「吉岡由緒書」に出てくる京都御所の警備を示した図です。小田原藩は禁裏御所の右側2か所に配置されているのがわかります。青線で囲った場所です。蛤御門はその反対側の赤い線で囲った場所になります。ここの警備は、薩摩藩、会津藩、桑名藩と彦根藩です。時代劇などではよく、長州藩対薩摩藩・会津藩の構図で語られることがほとんどで、桑名藩はあっても、彦根藩についてはほとんど語られていないのではないでしょうか。藩主を暗殺されるという最大の「恥辱」を受けた彦根藩です。「吉岡由緒書」によれば、結構、活躍しているみたいなのですが…。何だか歴史の闇の中に消えてしまっていますね。
小田原藩は、というと、ここには各藩の藩兵たちでごった返していましたから、戦闘には間に合いませんでした。しかも、この間に、本陣としていた誓願寺をはじめ、宿泊所がことごとく焼かれてしまっていました。何ともはや…でした!

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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